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更新日:2024年5月15日
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八天石蔵は、勝尾寺と麓の村との境界標と魔界の障難を防ぐ結界を形成するためのものとして勝尾寺の周り8箇所に四明王石蔵と四天王石蔵が交互に設けられました。
勝尾寺文書に初見されるのは、鎌倉時代の安貞2年(1228年)に発生した勝尾寺が山麓の萱野郷、豊嶋牧などの住人に入山伐木を制止したことに始まる寺領の諍いで、中央の実検使が下向し、現地検証を行い四角四天(八天)石蔵が確認され、寛喜2年(1230年)後正月廿七日に発せられた太政官符で結着した記録です。この後、同年五月、勝尾寺は官使とともに石蔵を再建しました。
八天石蔵の形は、勝尾寺本堂に面するように設けられてた石組を四角く壇状(基壇各辺4メートル、中壇各辺3メートル、上壇各辺2メートル、高さ1メートル)に積み上げたもので、最上段中央に陶製の外容器に収められた蝋型鋳造製の仏像(降三世明王・軍荼利明王・金剛夜叉明王・大威徳明王の四明王と多聞天王・持国天王・増長天王・広目天王の四天王)を交互に一体ずつ埋納していたもので、石壇を境界標として用いていた例は極めて少なく大変貴重な遺跡で国史跡に指定されています。八天石蔵から出土した陶製の外容器と蝋型鋳造製仏像は、鎌倉時代の作とみられ、寛喜年間の再建に合わせてつくられたものと考えられており、国重要文化財に指定されています。
勝尾寺の南には、ハ天石蔵や町石と違う文化財もあります。七町石から自然研究路5号線にぬける道の途中に少し変わった「お地蔵様」が鎮座されています。お地蔵様の名は「しらみ地蔵」と呼ばれており、像の高さが2メートル程もある大変大きな「お地蔵様」です。元々、このあたりには勝尾寺の茶畑や茶店があったそうです。
その名前には、「朝暗いうちに麓を出発した参詣者がこのあたりに来ると夜が白々としらみ始めたから」という説や「しらみ(白蛇=水神様)とつながり」説などいくつかの説があるようです。
また、「しらみ地蔵」はお地蔵様ではなくマリア様(近世、勝尾寺領の北には高山村があり、キリシタン大名として有名な高山右近の影響でしょうか、北摂の山間には隠れキリシタンに係る文化財も数多く残されています。)だとする説もあり、歴史ロマンを秘めた文化財のひとつです。
四天王は、もともとは古代インドでのほかの宗教神でしたが、仏教に取り入れられ仏の守護神となりました。須弥山の第4層で如来・菩薩の領域と人間との中間に位置し、仏法、仏法に帰依する衆生、国家を守護するといわれています。密教では、一般的に四天王として表され、東に持国天王、西に広目天王、南に増長天王、北に多聞天王が配されています。四天王は甲冑に身を固め邪鬼を足下に踏む姿で表現されています。
明王は、元々古代インドの神々で、佛教に取り入れられた天部神で、須弥山の第3層で仏法を守護しています。密教では、一般的に五大明王として表され、不動明王を中心に、東に降三世明王、西に大威徳明王、南に軍荼利明王、北に金剛夜叉明王が配されています。
町石は、勝尾寺旧参道にあり、旧西国街道の新家分岐にある勝尾寺鳥居の根元に36町石(1町は約109m)から勝尾寺まで1里(約4キロメートル)があります。
この勝尾寺旧参道に沿って複数の町石が点在していますが、勝尾寺山門の下乗石から七町石までが鎌倉時代に建てられた五輪塔婆(空・風・火・水・地輪から成る)の形をした町石で、日本最古の町石として国史跡に指定されています。史跡の町石には、建石された勝尾寺僧侶の名前と梵字が彫られており、勝尾寺文書から鎌倉時代の宝治元年(1247年)に建石されたものと考えられており、和歌山県高野山の町石塔婆(鎌倉時代の文永2年(1265年)建石)よりも古く日本最古の町石であるとして日本最古の町石とされています。
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