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更新日:2019年10月1日

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箕面公園(箕面山)その2-おもに明治以後のできごと

大阪府による公園整備

大阪府は、明治6年(1873年)の公園地候補地上申の際に、瀧安寺境内を除く約298ヘクタールの指定を計画しました。その要求は受け入れられず、明治31年(1898年)に公園地となったのは、滝道沿いの約85.4ヘクタールでした。その後も、大阪府は、明治44年(1911年)に国有林の払い下げについて建議していますが、このときも了承が得られませんでした。この明治44年(1911年)には、道沿いに木柵の設置や道路の改築、楓、桜、椿の植樹がされました。
大阪府の公園整備への意欲はかなり強く、大正2年(1913年)には、本多静六(慶応2年-昭和27年<1866年-1952年>)に依頼し、府営公園の整備方針をたてました。この方針に沿って大正9年(1920年)には、滝前の広場を整理し、滝つぼを南に拡張し、その縁に岩を積み、水位を上げて、豪雨時の対策をしました。大正10年(1921年)には、現在の昆虫館のあたりを芝生の休憩所とし、箕面植物見本園を新設しています。
大正10年(1921年)になって、ようやく国有林の公園的な利用が認められ、大正12年(1923年)12月8日に無償借入の許可を得ました。大正期に入ると、産業改革により多くの人びとが都会に住んで、働くようになり、それらの人びとの健康やレクリエーション、電車の普及による行楽者の増加を受けて、長年の要望が実現したものです。
また、箕面山には桜の古木も多くあり、大阪府は桜の群落を増やし、紅葉に勝る桜の名所にすることに努めています。昭和4年(1929年)には山桜553本と吉野桜180本が植え付けられています。
大阪府営公園東西一帯の公園地への編入の交渉は、その後も機会あるごとに続けられたようです。実際に、国有林を含む箕面山一帯(963ヘクタール)が公園地となるのは、明治百年記念の森として国定公園の指定を受けた昭和42年(1967年)のことです。

大正13年(1924年)の大整備

大阪府は、大正13年(1924年)に箕面公園の大規模な整備を行いました。この時の整備には、回遊路の新設など、本多静六が立てた方針も生かされています。
箕面公園の整備において技術的な役割を果たしたのは、大屋霊城(おおや・れいじょう。明治24年-昭和9年<1891年-1934年>)です。大屋が記した、将来に向けての改良方針の中には、主要道路建設による大阪市との直結、ケーブルカー、ホテル、水浴場など、後に実現したものもあります。

<大正13年(1924年)に整備された施設一覧>

  • 登山回遊路新設:延長約5.8キロメートル
  • 登山回遊路中の休憩用広場16か所新設(うち、3か所屋根付きの休憩所<望海丘、一本松、雲隣台>、トイレ2か所、喫煙所16か所)
  • 紅葉橋新設
  • 大山すべり台新設:延長約45m(当時、東洋一と言われました。)
  • 大日嶽トンネル修繕
  • そのほか道路新設:延長約5キロメートル
  • <資料の紹介>
    『箕面公園廻遊道路新設工事竣功報告書』(大阪府地方課、1924年)には、大正13年(1924年)に整備した施設の仕様書や設計図があります。このときに整備された施設の絵はがきが多数あります。登山回遊路が記されている案内図などがあります。公園案内図のパネルがあります。

滝と滝道沿いのお楽しみ(茶店、川床、イルミネーション)

茶店、土産物屋、料亭、旅館

一の橋手前には古くから一の橋楼という茶店・土産物屋がありました。一の橋楼の向かいにある橋本楼(料亭旅館。現在の橋本亭)は、明治末の箕面有馬電気軌道開業後に建てられています。
一の橋を渡った箕面公園内にも、明治31年(1898年)に大阪府営公園となってから、多くの茶店、土産物屋、料亭ができています。『最近之大阪市及其附近』(大久保透著、明治44年<1911年>9月25日)では、「千秋館」、「對泉閣」、「琴の家」、「めん茂支店」、「丸屋」、「すすき旅館」、「菊水」、「紅葉樓」、「鳥菊支店」などの料亭や旅館を紹介しています。
大正末ごろと思われる箕面公園案内図には、一の橋から滝上あたりまで順に、次のような店が記されています。なお、旧名については、大屋霊城編『名勝箕面公園』(『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告第二輯名勝箕面山』別冊、1932年)の「箕面山内茶店変遷図」を参考にしました。

  • 山口紅葉堂
  • 山水樓
  • 荒木楓瀧堂
  • 琴の家食堂
  • ささや
  • くれない
  • 桃太郎
  • 菊水
  • 一方亭:旧名は千秋館
  • 錦遊亭
  • 朝日倶楽部:朝日閣。旧名は秋錦樓
  • 紅葉樓
  • 丸屋
  • 加古川
  • 豊田屋:旧名は綿茂樓(めん茂支店)
  • 吉田屋
  • 琴の家
  • 初音
  • つるや
  • 枕流亭
  • 植福樓
  • 錦瀧庵
  • 杉ノ茶屋

昭和10年(1935年)ごろに箕面電車が出したパンフレット「阪急沿線旅館・ホテル・料亭御案内」には、「一方亭」、「一の橋樓」、「橋本樓」、「豊田屋」、「枕流亭」、「加古川」、「吉田家」、「魚茂樓」、「丸屋」、「琴の家」、「山水樓」、「菊水」、「喜楽」、「錦遊亭」、「錦瀧庵」、「みの家・初音」、「紅葉樓」が紹介されています。
夫婦橋の手前には、大正期に大阪府の有料休憩所となった「梅屋敷」がありました。

  • <資料の紹介>
    店の位置がわかる公園案内図があります。店などの写真絵はがきがあります(梅屋敷、一方亭、朝日閣<朝日倶楽部>、初音)。店のパンフレットもあります(めん茂樓、豊田屋)。同様のパネルがあります。

川床(川中休憩所、納涼台)

滝道沿いを流れる箕面川の中には、川床(川中休憩所/納涼台)が点在していました。行楽客がお弁当を食べたり、時には、碁や川柳の大会が開かれることもありました。
大阪時事新報社は、明治43年(1910年)8月1日に川床を開設しました。開設日当日の同社発行の『大阪時事新報』には、川床(新聞には「納涼台」とあります。)の宣伝が紙面1ページを使って掲載されています。同社が開設した川床は全部で5台あり、現在の時雨のあたりから上流に向かって順に、「せせらぎ亭」、「しがらみ亭」、「酔石亭」、「箕水亭」、「沈鐘亭」と名前が付けられていました。開設日には、若手人気俳優や子役の舞踊などさまざまなイベントが催され、電車も終日運転するなど、とてもにぎやかなものだったようです。

その後、大阪府が管理する川中休憩所も設置されました。
唐人戻り岩の写真絵はがきの中には、川中休憩所の屋根が連なっているようすが写っているものもあります。

ただし、箕面川は大雨による洪水も多く、流されることも多かったようです。
平成22年(2010年)夏に、社会実験として川岸に床を設営するかたちで復活しました。

  • <資料の紹介>
    写真絵はがきが多数あります。

イルミネーション

滝のイルミネーションは、箕面有馬電気軌道開業直後から演出されています。滝を五色に彩る「五彩の滝」の企画は、阪急電鉄が、昭和9年(1934年)に始めました。滝に、1キロワットのスポット4台に変色装置を加えて、演出しました。現在も、サマーフェスタ箕面公園(主催:箕面市観光協会)でのライトアップやキャンドル点灯が夏の夜を彩っています。

  • <資料の紹介>
    案内リーフレットなどがあります。

戦後の箕面公園・箕面山

  • <資料の紹介>
    各種の案内パンフレットなどがあります。

戦後の観光開発

箕面には、箕面保勝会、個人による箕面観光協会、箕面観光倶楽部などの観光推進団体がありましたが、公設の機関はありませんでした。
昭和25年(1950年)10月13日の箕面町観光委員会において、大阪毎日新聞社主催による日本観光地百選に箕面滝が入選したのを機に、観光行政を活発化させることが議題になり、そのなかで観光協会の設置や、箕面八景の選定などが議論されています。
箕面町観光協会は、昭和26年(1951年)9月22日、創立総会を北小学校で開催しました。設立趣意書の計画案にある箕面聖天山(しょうてんやま)の開発は、昭和28年度(1953年度)に着手されています。
箕面八景選定は、昭和26年(1951年)、箕面新十勝として阪神毎朝新聞社の主催、箕面町観光委員会の後援により、選定されています(1位から順に、如意谷の如意輪観音、新稲の栄松寺(えいしょうじ)、止々呂美川(とどろみかわ)、桜の正丸稲荷(しょうまるいなり)、白島の爲那都比古神社(いなつひこじんじゃ)、芝の萱野三平旧邸、平尾の西江寺(さいこうじ)、平尾の法林寺(ほうりんじ)、白島の薬師堂、半町(はんじょう)の本陣)。
箕面市は、昭和31年(1956年)12月1日に市制を施行しました。当時の新市町村建設促進法では、町村合併後5年間に限り、新市町村区域の国有林野の自治体への売払いなどを定めていました。この法律にもとづき、箕面市は、当初、市域全体の箕面山の買受けを計画しました。その後、南側山麓の一部に限定して再申請し、昭和33年(1958年)6月30日付けで大阪営林局長から承諾を受けました。この時に買い受けた山は、こもれびの森(平成6年<1994年>4月開設)、入会地だった六箇山(ろっかやま)をあわせた教学の森として、現在も市民の憩や教育活動の場として活用されています。なお、エキスポ‘90みのお記念の森は、平成2年(1990年)開催の国際花と緑の博覧会を記念して、大阪府が整備した森林公園です。
昭和39年度(1964年度)に、箕面市は「箕面山観光開発事業計画(案)」を作成しています。如意谷にあった才ヶ原水源地付近から山頂に至り、さらに箕面山自然動物園までつなぐロープウェーの建設や、民間導入により山頂付近に遊園地をつくるなど大規模な計画でしたが、実現には至りませんでした。

  • <資料の紹介>
    箕面町観光協会設立趣意書のパネルがあります。箕面新十勝の一部は『箕面町勢要覧』昭和27年版に写真が掲載されています。

みのお観光博覧会

みのお観光博覧会は、昭和28年(1953年)4月5日から6月5日にかけて、箕面公園を会場にして開催されました。主催は、大阪府教育委員会と大阪日日新聞社です。箕面町は協賛というかたちでかかわっています。
会場では、テレビ館、近代産業館などの近代科学製品の紹介から演芸会や物産展示販売、各種のコンクールなど、さまざまな催しが行われました。博覧会開催時に箕面公園昆虫館が開館しています。

  • <資料の紹介>
    みのお観光博覧会の案内ちらしがあります。

箕面山自然動物園とニホンザル

箕面山には、古くから野生のニホンザルが住んでいました。昭和25年(1950年)から昭和27年(1952年)にかけて研究者による生態研究が行われ、都市近郊の貴重な生息地であることが指摘されました。
昭和29年(1954年)に研究者や有志による餌付が成功し、昭和30年(1955年)5月5日に箕面町が箕面山自然動物園を開園しました(昭和56年<1981年>3月31日条例廃止)。
しかし、人間との間にトラブルが増加したため、自然に返すことに方針を変更しました。昭和52年(1977年)10月1日、箕面市は、箕面山猿調査会(現箕面山ニホンザル保護管理委員会)を設置し、今もそのとりくみを続けています。

  • <資料の紹介>
    パンフレットや写真絵はがきがあります。

観光馬車

観光馬車は、昭和30年代初めごろから昭和58年(1983年)の秋まで営業していたようです。昭和38年(1963年)には、箕面観光馬車組合が結成されています。昭和40年代半ばからは、滝道が混雑する土日は、ドライブウェーで営業していました。
昭和43年(1968年)当時の運賃は、大人150円小人半額、昭和45年(1970年)当時では、大人200円小人100円でした。6台程度の馬車が営業していたようです。
阪急箕面駅前から箕面大滝までのアスファルトの坂道は、馬にとっても重労働でした。急な坂道では、御者も降りて肩で後押ししました。そのため、1日3往復が限度だったようです。

  • <資料の紹介>
    観光馬車が掲載されている刊行物やリーフレットがあります。パネルもあります。

箕面川と災害、箕面川治水ダム

明治期から残る箕面村の公文書には、水害がしばしばおこり、そのたびに橋や道路を修繕した記録が多く残されています。災害は人々の生活や産業に大きな影響をおよぼします。市域では、昭和13年(1938年)、昭和26年(1951年)にそれぞれ1人、昭和42年(1967年)には4人の死者が出ました。

昭和10年代(1935年)の水害

昭和10年代は、昭和9年(1934年)9月の室戸台風、昭和10年(1935年)6月、同年8月、昭和13年(1938年)7月と、復旧のいとまもないほど、続けて豪雨に見舞われています。とくに、昭和13年の水害では、豊能郡内で18人の命が失われるなど、大きな被害が発生しました。箕面村でも1人が亡くなっています。

  • <資料の紹介>
    昭和10年6月の水害については、箕面村や萱野村の被害状況写真があります。

昭和26年(1951年)の水害と合田百一(ごうだ・ももいち)

昭和26年(1951年)7月11日の大雨では、箕面町警察署長だった合田百一が殉職しています。合田は、箕面公園内にあった会社寮から増水の連絡を受け、署員と一緒に、公園内の店や寮の被害状況を確認しながら、滝まで向かいました。滝近くの茶店内にいる人を救助しようとして、濁流にまきこまれたのです。当時、箕面の警察は自治体警察だったため、町葬が行われています(昭和26年<1951年>9月30日に自治体警察は廃止されました。)。大門橋から滝に向かう道の途中、大きく右に曲がるカーブ手前の左手、合田署長が濁流にのみこまれた地点に、有志による「合田百一氏殉職之碑」が建てられています。

  • <資料の紹介>
    殉職の状況を報じた箕面町報があります。パネルもあります。

昭和42年(1967年)の水害と箕面川治水ダム

昭和42年(1967年)は7月9日から数日続いて大雨が降り続き、大きな被害がもたらされました。この水害では、止々呂美消防団員2人と4歳の幼児1人を含む4人が亡くなっています。止々呂美消防団員は、家屋崩壊防止のための流木撤去作業中に流されました。4歳の幼児は、自宅裏山で造成中の宅地が崩れ、自宅に土砂が流入して亡くなっています。もうひとりは、歩行中に水路に転落し流され、亡くなりました。
以前から、箕面川にダムを要望する声はありましたが、昭和42年(1967年)の水害は人命をともなう大きなものだったため、ダム建設への動きを強める要因となりました。
箕面川治水ダムは昭和56年(1981年)に工事完了し、翌年の昭和57年(1982年)5月19日竣工式が行われました(昭和58年<1983年>6月試験湛水完了)。

  • <資料の紹介>
    水害の被害状況写真があります。パネルもあります。

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