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明治43年(1910年)3月10日の箕面有馬電気軌道(現在・阪急電鉄)の開業をきっかけに、箕面は空気・水・景観など自然に恵まれ、交通の便もよい土地柄として、支線沿いに多くの住宅地が開発されました。箕面が郊外住宅地として今も続くのは、めぐまれた環境という条件のほか、新住民によるコミュニティーなどのとりくみにより、そういう条件を維持しつつ、住みやすいまちづくりがおこなわれてきたことが大きな要因でしょう。
参考資料 |
<箕面の郊外住宅地に関すること>
<桜ヶ丘住宅改造博覧会に関すること>
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桜井住宅地は、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が開発し、明治44年(1911年)6月15日に分譲を開始しました。箕面における大規模開発の第一歩となった住宅地です。
桜井は、南と北に山が連なり景観がよい上に夏涼冬暖、水質もよく交通の便もよく、果樹園を開発したため、各家の庭園には数本の果樹があり、モモ、アンズ、ナシなどの花や実が居ながらに楽しめる、と宣伝されました。
桜井の住宅は、規模にかかわらず1,200円の均一価格で販売されました。保証金200円を払うと大阪市内の家賃と変わらない月12円で、土地・建具つきの家が買えると広告が出されています。当時の大阪市内の長屋家賃(現在の3DK規模)は月4円30銭だったため、大阪に勤める高額給与生活者が対象だったと考えられます。
桜井では、住民により「桜井会」という自治組織がつくられ、コミュニティ活動が活発に行われました。雑誌を発行したり、購買組合を結成(大正8年<1919年>)するなどしています。
桜井住民による桜井児童保護会は、大正12年(1923年)5月1日に桜井幼稚園を開設しました。当初は、児童遊園地を拠点とした園舎のない露天保育だったようです。桜井児童保護会は、大正10年(1921年)に設立された会で、住民のこどもたちが通う箕面小学校の質の向上を目的に結成されました。
桜井幼稚園は、昭和10年(1935年)に若葉婦人会が譲り受けると同時に、現在の名称になりました。
大阪みどりの100選に桜並木が選ばれた、市道才ヶ原線周辺の箕面4丁目・5丁目近辺は、大正9年(1920年)ごろから箕面土地株式会社が開発しました。
同会社の経営主である岸本兼太郎(きしもと・かねたろう)は、開発当初から地域にも貢献できる独自の教育機関の設置を考えており、大正13年(1924年)に箕面家なき幼稚園(箕面自然幼稚園)、大正15年(1926年)に箕面学園(現在の箕面自由学園)を誘致しました。箕面学園は現在の北小学校の地に、箕面家なき幼稚園はその西側にありました。箕面土地株式会社は、この住宅地を「自然の学校村」とし、こどもを主体にした理想の学校をもつ住宅地として宣伝しています。
箕面土地は生活環境も整備し、大正15年(1926年)に地下水利用による簡易水道をひき、その後需要の増加により、昭和6年(1931年)には農業かんがい用水の飲料用水への利用を願い出ています。この時、新たにつくられた貯水池(才ケ原水源地)は、昭和27年(1952年)に箕面市が買収しましたが、昭和56年(1981年)にその役目を終え、その敷地は昭和57年(1982年)6月、コミュニティセンター北小会館「北斗の家」となりました。
桜ヶ丘住宅改造博覧会は、大正11年(1922年)9月21日から11月26日にかけて、日本建築協会により開催されました。生活の洋式化を推進する生活改善のとりくみの集大成といえる博覧会です。この博覧会では、理想のまちと家のモデルを実際につくり、終了後に展示住宅を土地付きで販売するという画期的な試みがされました。日本建築協会は、博覧会開催前に住宅設計図案を募集し、入選作品住宅も実際に建築、販売されました。
会場は約1万5000坪(約5万平方メートル)あり、東側(5000坪。約16,500平方メートルには、住宅設計入選図案の実物住宅や建築会社など全14社からの出品による合計25戸の住宅が建ち並び、西側の陳列本館には150品目をこえる物品の展示がおこなわれました。西側の野外会場には噴水、音楽堂、活動写真館、飛行機遊具、休憩所など、憩い遊べる施設もありました。
最寄り駅の桜井駅も飾り付けられ、駅から会場までの道の両側には広告看板が立ち並んでいたようです。
半円形の街区に道路を放射線状に配した博覧会の地は、今も美しいまちなみを形成しています。また、当時の展示住宅も残っており、国の登録有形文化財に指定されている住宅もあります。
桜ヶ丘住宅地は、田村地所部の田村眞策と豊福兼助が開発に着手した土地です。大正8年(1919年)から開発がはじめられていましたが、資材調達や天候、資金などの問題により開発は遅れぎみでした。
桜ヶ丘住宅改造博覧会の誘致にあたり、田村眞策は道路と下水道の整備を提案しています。実践的な生活改善のモデルを提案したい日本建築協会と、経営を軌道にのせたい開発者の思惑が一致して実現したのが、桜ヶ丘住宅改造博覧会でした。
博覧会終了後、会場周辺は田村地所部や大同土地株式会社により開発されていきます。その後、時期は不明ですが、その開発地は、阪急電鉄の経営地となりました。
進駐軍の日本駐留のため、昭和21年(1946年)8月から9月にかけて、桜ヶ丘の住宅の多くが接収されました。接収指定されると、家具や調度品の持ち出しまで禁じられました。昭和27年(1952年)にサンフランシスコ講和条約が締結され、進駐軍が撤収すると住宅接収は解除されました。しかし、元の住人をむかえられなかった家もありました。また、家には多くの改造がされており、とくに塗装された内装の色には大変な違和感をおぼえたということです。住むためには、あらためて塗装しなおすなどしなければなりませんでした。
百楽荘は、関西土地株式会社が開発し、大正13年(1924年)7月に分譲を開始しました。開発当初は「新桜井住宅地」と名付けられていましたが、大正13年(1924年)11月ごろから「百楽荘」と宣伝されています。住宅のほか、売店、派出所、ビリヤード場、遊園地、下水などが整備されていました。百楽荘の玄関に位置する牧落駅は、同社をはじめ箕面村内の多くのひとびとの働きかけや寄付により、大正10年(1921)年12月30日に開設されました。
百楽荘の土地は、もともと櫻井(さくらい)住宅土地株式会社(大正9年<1920年>3月設立)の所有地でしたが、大正9年(1920年)12月に関西土地株式会社(当時は帝国信託株式会社。大正12年<1923年>10月に改称)と合併しています。
百楽荘の開発は箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の指導を受けたようですが、生け垣や石畳を敷いた側溝があるまちなみは、関西土地株式会社が独自に設計したようです。百楽荘には、同社の社長竹原友三郎も住んでいた時期があり、同社が力を入れた経営地だったと言えるでしょう。
今も小学校につながる広い道路の両側に生け垣や石畳が続く美しい街並みが維持されています。
東箕面田園住宅地は、小谷工務店株式会社が開発し、昭和4年(1929年)に分譲を開始しました。当時の萱野村今宮近辺にあり、今回紹介した中で、唯一箕面の路線から離れています。
桜井南天荘は、昭和9年(1934年)ごろ、清光社が開発、分譲しました。現在の桜井三丁目から豊中市宮山町にかけたあたりです。
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