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更新日:2019年10月1日

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ラケット形線路時代の箕面とその後

ラケット形線路時代の箕面駅とその周辺

明治43年(1910年)3月10日、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が開業しました。最初の路線となったのが宝塚線と箕面支線です。
当時、すでに大阪府営箕面公園となっていた箕面山の玄関口に、箕面駅が開設されました。箕面駅の構造はとてもユニークなものでした。線路はテニスのラケットのような形で、公園に向かう滝道の前をぐるりと周遊するようになっており、降車場と乗車場が別々につくられました。
線路の内側(駅構内)は運動場になっていました。駅ができた当初は線路とホームがあるだけの殺風景な風景だったようですが、徐々に運動場内や駅の周辺にさまざまな施設がつくられていきます。山中には箕面有馬電気軌道が経営する動物園もつくられました。

  • <資料の紹介>
    山から駅方面を写し、ラケット形線路の全景がわかる写真絵はがき、運動場内から滝道入口を写し、箕面山が写っている写真絵はがきが多数あります。写真絵はがきと同様のパネルのほか、駅周辺のようすを図示したパネルもあります。
参考
資料

<駅の設置やラケット形線路、その周辺の建築物などに関すること>

  • 旧箕面村公文書☆
  • 大阪朝日新聞
  • 阪神急行電鉄株式会社編発行『阪神急行電鉄二十五年史』、1932年☆
  • 京阪神急行電鉄株式会社編発行『京阪神急行電鉄五十年史』、1959年☆
  • 小林一三著『逸翁自叙伝-青春そして阪急を語る』阪急電鉄株式会社、1979年☆
  • 阪急電鉄株式会社編・発行『75年のあゆみ』1982年☆
  • 高橋正雄著「開業当初の箕面停留所を探る」『館報池田文庫』第11号、財団法人阪急学園池田文庫、1997年☆
  • 高橋正雄著「箕面有馬電軌寶塚・箕面停留所、初期の姿を探る」『阪急鉄道同好会報』増刊7号、阪急鉄道同好会、1998年☆
  • 箕面市文化財総合調査団編・発行『箕面市文化財総合調査報告書2旧箕面地区・旧止々呂美地区』2002年☆
  • 高橋正雄著「画像記録が語る箕面停留所の初期」『阪急鉄道同好会報』第113号、阪急鉄道同好会、2004年☆
  • 豊中市史編さん委員会編『新修豊中市史』第8巻社会経済、豊中市、2005年☆
  • 宇田正著『鉄道日本文化史考』思文閣出版、2007年☆
  • 池田市立歴史民俗資料館編・発行『電鉄時代の幕開け』2007年☆
  • 阪急阪神ホールディングス株式会社編・発行『100年のあゆみ』2008年☆

<カフェーパウリスタ箕面喫店に関すること>

  • 木村直樹著「名古屋珈琲文化考-珈琲糖を媒介にして-」『アリーナ』2005年版、中部大学国際人間学研究所編、人間社、2005年☆
  • 長谷川泰三著『日本で最初の喫茶店「ブラジル移民の父」がはじめた-カフエーパウリスタ物語』文園社、2008年☆

<箕面動物園に関すること>

  • 箕面有馬電気軌道株式会社編・発行『山容水態』1912年☆
  • 箕面有馬電気軌道株式会社編・発行『山容水態』1913年7月~1916年9月、1917年8月
  • 村島歸之著『小林一三』国民社、1937年☆
  • 阪神電気鉄道株式会社編・発行『輸送奉仕の五十年』1955年
  • 佐々木時雄著『動物園の歴史-日本における動物園の成立』講談社、1987年
  • 福井優子著『観覧車物語-110年の歴史をめぐる』平凡社、2005年☆

<大阪お伽倶楽部に関すること>

  • お伽倶楽部編・発行『お伽倶楽部』第1巻第1号(1911年6月)、第1巻第2号(1911年8月)、第1巻第3号(1911年10月)、第1巻第4号(1911年11月)、第1巻第5号(1911年12月)、第2巻第2号(1912年2月)、第2巻第4号(1912年4月)、第2巻第5号(1912年5月)
  • 武内善信著「高尾楓蔭小論-初期社会主義とお伽芝居-」『ヒストリア』第150号、大阪歴史学会、1996年☆
  • 高尾亮雄著・堀田穣編『大阪お伽芝居事始め-「うかれ胡弓」回想と台本-』関西児童文化史研究会、1991年
  • 津金澤聡廣著『近代日本のメディアイベント』同文舘出版、1996年☆
  • 大津祐司著「研究ノート-久留島武彦と雑誌『お伽倶楽部』附『お伽倶楽部』総目次」『史料館研究紀要』第6号、大分県立先哲史料館、2001年☆
  • 堀田穣著「観光と児童文化-別府と大阪を結んだお伽船」『京都文化短期大学紀要』24号、京都文化短期大学学会、1996年
  • 堀田穣著「楓蔭高尾亮雄の明治四十年代」『京都文化短期大学紀要』31・32合併号、京都文化短期大学学会、2000年
  • 堀田穣著「油屋熊八・梅田凡平・お伽船」『別府史談』第19号、別府史談会、2006年

以上の堀田穣氏論考は、すべて、堀田穣研究室ホームページ内の「お伽船研究室」(http://www.geocities.jp/otogi1907/index.ht-ml)より確認した。

金星塔(電飾塔)

箕面公園に向かう滝道の入口に、2本の塔がありました。塔には、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の「M」と「A」を組み合わせた社章が付いていました。
当初は電飾が付けられており、明治43年(1910年)7月1日に点灯開始しました。
時期は不明ですが、その後電飾ははずされます。写真絵はがきでは、観覧車と金星塔が同時に写っているものには金星塔に電飾がついていません。観覧車によく似た電飾が付けられていることから、金星塔から観覧車に電飾を付け替えた可能性もあります。観覧車は明治44年(1911年)7月15日に営業を開始しています。
大正のはじめごろ金星塔は、ライオン像を戴き、「箕面動物園」と刻まれたコンクリートの塔に建て替えられました。この建て替えの時期も不明ですが、大正2年(1913年)8月に撮影した写真には金星塔が写っており、大正4年(1915年)10月に作成した図面にはライオン塔が描かれているため、その間に建て替えられたものと思われます。

  • <資料の紹介>
    金星塔が写った写真絵はがきが多数あります。パネルもあります。

箕面公会堂

ラケット形線路内の運動場南端に、明治44年(1911年)4月16日に開館しました。建物正面に、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の「M」と「A」を組み合わせた社章がついていました。建物は回廊様式で、建物の中央部分には屋根がありません。
この建物は、大正8年(1919年)に宝塚に移築され、歌劇場として活用されましたが、大正12年(1923年)に焼失しています。

  • <資料の紹介>
    建物を正面から写した写真絵はがきがあります。山から駅方面を写した写真絵はがきにも写っています。パネルもあります。

富士山すべり(すべり台)

明治44年(1911年)10月に開催された箕面山林こども博覧会の時に、ラケット形線路内運動場に設置された遊具です。この博覧会の時につくられた児童電車のレールの内側にありました。博覧会終了後、運動場内にレールとともに残されました。

  • <資料の紹介>
    写した時期の違う写真絵はがきがあります。パネルもあります。

箕面郵便局

箕面郵便局は、明治43年(1910年)8月21日に、金星塔の西側に建てられた洋館で開局しました。玄関が飛び出し、2階にはバルコニーもある六角形のユニークな形状の建物です。

  • <資料の紹介>
    建物の外観などの写真絵はがきがあります。パネルもあります。

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箕面動物園

箕面動物園は、明治43年(1910年)11月1日に、箕面山の山中に開園しました。場所は、現在の箕面観光ホテルのあたりになります。箕面有馬電気軌道が設置しましたが、その運営の多くに、箕面停留所前に事務所があった大阪お伽倶楽部(おおさかおとぎくらぶ)がかかわったようです。翠香殿(すいこうでん。余興場)でおとぎ芝居を催すなどしました。
箕面動物園は面積がおよそ3万坪(約10万平方メートル甲子園球場総面積の約2.5倍)もある国内最大規模の動物園と宣伝されました。山の地形を活かして動物を配置したほか、当時珍しかった噴水や観覧車、翠香殿などの施設があり、園内各所には季節の花木が植えられていました。眺望が良かったのも人気だったようです。
動物は海外から取り寄せるなどしたようです。大正2年(1913年)の香櫨園(こうろえん)遊園地(阪神電鉄経営)閉園の際にも、箕面に動物たちがたくさん移ってきました。
箕面動物園は、大正5年(1916年)3月31日に閉園します。その後しばらくは箕面駅前ラケット形線路内運動場に動物を移し、無料公開しました。ゾウやトラなど大型の動物は、前年に開園していた天王寺動物園にひきとられたようです。なお、閉園後の動物の引取先として宝塚動物園といわれることがありますが、宝塚に本格的な設備をともなう動物園ができるのは、大正13年(1924年)に開業した宝塚ルナパークの時であるため、時期のずれに疑問が残ります。

  • <資料の紹介>
    園内案内図が数種類あります。箕面動物園の歌が掲載されたパンフレットがあります。園内の動物や施設の写真絵はがきが多数あります。パネルもあります。

箕面動物園は何番目の動物園?本当に最大規模?

日本最初の動物園は、明治15年(1882年)3月20日に開館した上野博物館付属の動物園です(前身は、山下町博物館に明治7年(1874年)ごろつくられた動物飼育場。現在の東京都恩賜上野動物園)。箕面動物園ができる前には、明治17年(1884年)に設置された大阪府博物場付属動物檻(天王寺動物園の前身)、明治36年(1903年)4月1日に開園した京都市動物園などがあります。そのほかにも、国内には、明治期から個人や企業経営の動物園が何カ所かあったようです。まだまだ知られていない動物園は多くありそうで、正確に何番目ということはできません。
規模については、皇室直轄の非公開施設であった新宿動物園(明治28年<1895年>設置)は敷地が約11.2万平方メートルと、箕面動物園よりも広かったようです。ただし、池や芝生が大半を占め、動物は少なかったようです。なお、箕面動物園開園時の上野と京都の動物園は、それぞれ3.3万平方メートル程度だったようです。

不老門(ふろうもん)と蓬莱橋(ほうらいばし)

動物園の入口にある不老門と発券所はともに、おとぎの世界にいざなうような異国情緒あふれる凝ったつくりの建物です。滝道から動物園に架かる橋には「蓬莱橋(ほうらいばし)」という名前が付けられていました。
発券所の屋根部分には、箕面有馬電気軌道の「M」と「A」を組み合せた社章がついていました。不老門や蓬莱橋が写っていても発券所が写っていない絵はがきがあるため、開園当初はなかったものと思われます。

  • <資料の紹介>
    撮影時期や写す角度の違う写真絵はがきが多数あります。パネルもあります。

観覧車

観覧車は、明治44年(1911年)7月15日からの納涼台開きにあわせて、営業をはじめました。同年7月13日付け大阪朝日新聞広告では、「涼しい空をぐるぐる大廻転車」とあります。観覧車には座席がなく、立ち乗りでした。観覧車の外側には二重に電飾がついており、夜になると電気がともり、山腹に輝く観覧車が見えたと思われます。観覧車の電飾は、駅前の滝道入口にあった金星塔から付け替えられた可能性があります。

  • <資料の紹介>
    写真絵はがきがあります。運動場内から滝道入口を写したものには、山中に観覧車が見えるものがあります。観覧車から写した風景写真もあります。パネルもあります。

翠香殿(すいこうでん)

檜皮葺の舞楽堂。大きさは50坪(約165平方メートル)ほどで、入母屋造の千鳥屋根、柱や床には檜柾を用いていました。『最近之大阪市及其附近』(大久保透著、明治44年<1911年>9月25日発行)によると、「桃山時代の御殿風」と紹介されています。ここで舞踊や音楽を演奏し、土・日・祝日には一般観客が無料で観覧できました。

  • <資料の紹介>
    写真絵はがきがあります。パネルもあります。

赤ちゃんを産んだライオン

明治44年(1911年)3月に、ドイツからライオンのつがいが来ました。明治44年(1911年)11月には、ライオンの赤ちゃんが生まれています。『山容水態』(箕面有馬電気軌道、大正3年<1914年>9月)には、ライオンの子どもは発育良好という記事が見られますが、同じライオンかどうかはわかりません。

  • <資料の紹介>
    写真絵はがきがあります。パネルもあります。ただし、赤ちゃんライオンのものはありません。

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カフェーパウリスタ箕面喫店(みのおきってん)

カフェーパウリスタ箕面喫店

カフェーパウリスタ箕面喫店は、明治44年(1911年)6月25日に、箕面駅前金星塔の東側の洋館で開店しました。建物の東西の壁にはカフェーパウリスタのマークがついていました。カフェーパウリスタでは店のことを「喫店」と呼んでいます。
専門店としてコーヒーを提供する店としては、大阪で1、2を争うほど早い時期の開店です。
この店の出店には大阪製菓株式会社取締役の渡邊益夫が関わっており、同社のお菓子とコーヒーのセットが10銭で提供されていました。
営業期間は不明ですが、明治45年(1912年)1月26日付けの大阪朝日新聞に掲載された「カフェーパウリスタ道頓堀コーヒー店」の開業広告中に、「東京、大阪、箕面、宝塚」と記されており、この時にはまだ営業していたようです。

  • <資料の紹介>
    写した時期の違う、建物の外観の写真絵はがきがあります。山から駅方面を写した写真絵はがきにも写っています。パネルもあります。

カフェーパウリスタの由来

ブラジル語(ポルトガル語)で、「カフェー」は「コーヒー」、「パウリスタ」は「サンパウロっ子」という意味があります。その名のとおり、カフェーパウリスタは、ブラジル共和国サンパウロ州との関係をもとに設立された会社です。
カフェーパウリスタの設立者である水野龍は、初のブラジル移民団長です。水野はコーヒー豆の販路を日本で拡大する契約をサンパウロ州と結び、コーヒー豆を無償貸与されたのでした。
箕面もブラジル移民の歴史と、コーヒーを通してつながっているのです。

カフェーパウリスタ箕面喫店建物の歴史

カフェーパウリスタ箕面喫店の建物自体は金星塔ができる前から、すでに建築が始まっています。建物の屋根にはもみじ形の装飾がついていました。
明治末ごろに箕面喫店が閉店した後は、大阪お伽倶楽部の事務所が入ったようです。
この建物は、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の所有だったため、その後、同社が開発した豊中住宅地(大正2年<1913年>開発)に移築され、倶楽部(くらぶ)として使われました。移築時期は不明ですが、大正6年(1917年)にはすでに移築されていたようです。
その後、長く豊中クラブ自治会館として使われていましたが、老朽化のため平成25年(2013年)10月1日、くしくもコーヒーの日に解体されました。豊中市が旧建築部材の一部を取り外して保存し、現在の建物の内部にも部材の一部が再現されています。

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大阪お伽倶楽部(おおさかおとぎくらぶ)

大阪お伽倶楽部は、明治40年(1907年)1月11日に発足しました。箕面駅前に事務所があった正確な時期は不明ですが、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)開業当初は、郵便局西側の建物にあり、その後カフェーパウリスタ箕面喫店があった洋館に移ったようです。洋館からは夜になるとにぎやかな楽器の音が聞こえてきたそうです。
お伽倶楽部は、全国のさまざまな地域で設立され、地域独自の活動を展開しました。各地域の団体が連携して、瀬戸内海を周遊する「お伽船」を運航し、各地のこども同士が交流するとりくみもしています。

大阪お伽倶楽部のとりくみと高尾亮雄(たかお・あきお)

大阪お伽倶楽部は、ラケット形線路内にあった公会堂で「口演(こうえん)童話」(物語の語り聞かせ)や箕面動物園内の翠香殿(すいこうでん・翠香殿)でお伽芝居(おとぎしばい。物語の劇)を定期的にするなどしています。
大阪お伽倶楽部発足の中心者である高尾亮雄(明治12年<1879年>~昭和39年<1964年>)は、箕面駅近くに長く住み、箕面のもみじを愛し、雅号を「楓蔭(ふういん)」としました。高尾はこどもが遊び、活動する場づくりが夢でした。箕面駅ラケット形線路内運動場から動物園にいたる空間は、高尾自身の夢を実現させる舞台でもありました。高尾は、もともとはヒューマニズム色の濃い社会主義活動家でした。演劇活動の中でお伽芝居と出会い、そこから、こどもをめぐる文化や教育、社会、福祉の問題に生涯にわたり幅広くとりくみました。

模型飛行機競技会

明治44年(1911年)8月1日から20日まで、ラケット形線路内運動場や公会堂で開催されました。運動場では、8月4日から6日までの3日間、実際に模型飛行機を飛ばす競技会が開催されています。公会堂では、こどもの作品からおとなの作品までたくさんの模型飛行機が陳列されました。大会開催前にも、会場内で模型飛行機製作材料の販売がされたり、副賞品の寄贈があるなど、関心が集まりました。大会の成功を機に、大阪お伽倶楽部では模型飛行機倶楽部を創立しています。

  • <資料の紹介>
    競技会場や模型飛行機の写真絵はがきが多数あります。競技会場のパネルもあります。

箕面山林こども博覧会

箕面山林こども博覧会は、ラケット形線路内運動場を第一会場、箕面動物園を第二会場として、明治44年(1911年)10月10日から末日まで開催されました。こどもを対象にした博覧会としては、非常に早い時期のものです。
第一会場では、円形のレールの上を児童電車が走り、その内外に、「富士山すべり」(すべり台)や「ピラミッドに獅子」(トンネル)、ブランコなどの大型遊具がもうけられました。象の曲芸もありました。
第二会場には、園内のあちこちに幼稚園児や小学生の作品展示場があり、昆虫館も登場しています。ラクダやロバにこどもを乗せて会場内を周遊したり、こども向けの理髪室や写真室もありました。
こども向けの催しのほかに、回生病院小児科によるおむつの展示や、おとなを招待しての研究会も開催されました。
また、滝道から動物園に架かる蓬莱橋(ほうらいばし)を五条大橋に見立てて牛若丸と弁慶の人形を配置し、動物園の入口である不老門の上には熊を持ち上げている金太郎の人形、動物園内を流れる川には桃太郎の桃などを置き、お伽倶楽部らしい演出をしています。

  • <資料の紹介>
    博覧会の案内絵はがきや富士山すべり、象の曲芸、こどもがラクダに乗っているようすなどの写真絵はがきがあります。富士山すべりの写ったパネルもあります。

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ラケット形線路内運動場の住宅地化と箕面駅のうつりかわり

箕面駅のラケット形線路内の運動場は、大正11年(1922年)に住宅地になります。当初住宅地になったのは運動場の北側で、南側は東部が大正14年(1925年)ごろ、西部が昭和8年(1933年)ごろに宅地化されています。
箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)は、大正8年(1919年)3月、ラケット形線路内の運動場を廃止し、跡地の宅地化について箕面村に協議を申し入れています。箕面村は運動場の活用を考えたいと嘆願しましたが、同社の方針は変わらなかったようです。その後、同年11月に公会堂跡地(公会堂は大正8年〈1919年〉に宝塚に移築)に神戸線用新型車両8両の車庫2棟が設置されました。大正9年(1920年)7月に神戸線が開通した後、ラケット形線路は廃止されたと考えられます。

昭和15年(1940年)ごろには貨物ホームがなくなり、運動場跡地北側の広場を除いて、もとラケット形線路があった内外は、すっかり住宅や商店になりました。

箕面駅は、昭和54年(1979年)に終了した市の駅前再開発事業とあわせ、昭和53年(1978年)6月末に駅舎改築とホームの拡幅が完成しました。

かつてのラケット形線路は、駅手前のゆるいカーブや東側住宅地での数メートルの段差に、その面影をとどめています。地図で見ると、住宅の並びから、ラケット形線路のなごりがよみとれます。また、現在のロータリーの北側がラケット形線路の北端の形状に沿っていました。乗車ホームは、みのおサンプラザ2号館東端あたり、みのおサンプラザ1号館と向き合う位置にありました。

  • <資料の紹介>
    駅の変遷については、それぞれの時期別の作図パネルがあります。大正8年(1919年)の箕面有馬電気軌道からの申入書と箕面村の嘆願書についても、パネルがあります。

桜井駅と併用軌道

桜井駅は、明治43年(1910年)4月12日に開設されました。当時は、駅から牧落踏切までの線路は、旧西国街道の南端に沿って敷設されています。箕面電車は軌道条例による設立のため、路線のどこかで道路と線路を併用しなければなりませんでした。しかし、旧西国街道は道幅が狭く、線路を敷設する余裕がなかったため、南側に用地を確保して併走させたと思われます。
大正15年(1926年)ごろ、阪急電鉄(当時は、阪神急行電鉄)は、箕面支線を含め各地の併用区間を専用線に変更しました。桜井駅から牧落踏切までの広い道路(桜井一番通り)と歩道に、かつての面影を見ることができます。

  • <資料の紹介>
    併用軌道のようすがわかる図面パネルや現在の線路との比較ができるパネルがあります。

牧落駅と地下道

牧落駅は、大正10年(1921年)12月30日に開設されました。牧落駅は、駅前の百楽荘を開発した関西土地株式会社をはじめ、箕面村の多くのひとびとの働きかけや寄付により誘致されてできた駅です。
牧落駅は箕面小学校のすぐ近くにあり、同小学校に通う児童の安全のため、昭和5年(1930年)1月に踏切を廃止して地下道としました。現在、箕面小学校南側の高架下の道路は大きく掘りこまれていますが、これはそのなごりです。

  • <資料の紹介>
    駅設置時の図面や、踏切廃止の要望書のパネルがあります。

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よくあるご質問

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所属課室:総務部総務室 

箕面市西小路4‐6‐1

電話番号:072-724-6706

ファックス番号:072-723-2096

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