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参考資料 |
<箕面小学校に関すること>
<箕面学園(現在の箕面自由学園)に関すること>
<箕面家なき幼稚園(箕面自然幼稚園)に関すること>
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箕面小学校は、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が開業する前年までは、西小路に校舎がありました。明治42年(1909)3月に現在地に移転し、校舎も新築しました。重要な資金となったのが、箕面村内の6つの大字が管理していた報恩寺松尾山を箕面有馬電気軌道に売却したお金でした。同社がこの時に購入した土地は、のちに箕面動物園となりました。
電車開通と住宅開発により児童は増え続け、校舎はすぐに狭くなり、増築を繰り返しましたが、常に教室不足に悩まされ続けました。昭和2年(1927年)と昭和8年(1933年)に、木造校舎のうち2棟をコンクリート校舎に改築しています。それでも、昭和11年(1936年)には新しい学校の建設が必要となり、やがて二部授業せざるを得ないほど苦しい状況になりました。昭和19年(1944年)2月、箕面村は経営困難となっていた箕面学園(現在の箕面自由学園)の校舎、教材、備品のすべてを買い取り、昭和20年(1945年)4月に北小学校(当時は北国民学校)を開校しました。
箕面村は、大正12年(1923年)に立てた村治計画の中で、「教育をもって人心文化の中心とすること」という項目をあげ、「教育中心主義」をかかげました。学校の講堂での児童文庫の開催や、巡回文庫の設置、教育講演会の開催、学用品の統一などしています。地域でも、桜井住宅地の住民が大正10年(1921年)に児童保護会を設立するなど側面から学校を支援しました。こうした熱心なとりくみにより教育が向上し、箕面村に移り住むひとびとが増えました。また、村外から入学を希望する者が多くなり、断るのに苦労するほどだったようです。
箕面学園(現在の箕面自由学園)は、大正15年(1926年)4月に、現在の北小学校の地で開校しました。とんがり屋根の塔がついた洋風校舎の新しい感覚の学校でした。
初代校長小谷新太郎は、児童みずからが本物の自然や文化に親しむことで情操をゆたかにする独創的な教育を重視し、「教育は人格と人格の隔てない交渉」として教師に対しても全人格的な教育を求めました。
学園周辺の開発者であり学園校主である岸本兼太郎(きしもと・かねたろう)は、村行政や地域の運営にもさまざまな協力をしていました。しかし、戦争の影響で、本業の商船業の経営が困難となり、各種の事業から手を引かざるを得なくなりました。そのため、昭和19年(1944年)2月、新しい学校の設立を計画していた箕面村が校舎、土地、備品すべてを買取り、昭和20年(1945年)4月に北小学校(当時は北国民学校)を開校しました。
同学園は、昭和20年(1945年)4月から半年間は宣真高等女学校に、その後は中山寺に仮校舎を置き、教育活動を続けました。昭和22年(1947年)10月に現在地に再建しますが、その時には「箕面学園」の名称が別の学校法人により登録されていたため、「箕面自由学園」として再出発しました。
箕面家なき幼稚園は、大正13年(1924年)6月、大阪毎日新聞記者橋詰良一によって設立されました。場所は、現在の北小学校の西側です。昭和5年(1930年)12月1日に箕面自然幼稚園と改称しました。「家なき幼稚園」としたのは、建物の中ではなく自然のなかでの育ちを重視し、名付けたものです。自然を教室とするために、移動に便利なように板と脚をくみあわせる机と布張りのたためるいすを使いました。草や花などの自然物で工作し、遊ぶことも重視していました。
この幼稚園は、はじめ池田の室町住宅地に大正11年(1922年)に設立された後、その独創的な実践が多くのひとびとの関心を呼び、宝塚、十三、雲雀ヶ丘、千里山、大阪に、次々と設立されました。箕面は4番目の開設だったようです。それぞれが地域状況に応じた独自な活動を実践し、池田は“お宮の幼稚園”、宝塚は“川の幼稚園”、箕面と千里山は“山の幼稚園”などと呼ばれていました。
箕面では山登り、ハンモック、“スベリッコスケート”(山の斜面をすべりおりるものか?)をしたり、時には、園主でもある岸本兼太郎の別荘に遊びに行き綱引きをすることもあったようです。地域の家庭を訪れるというのはほかの園でもあり、この幼稚園の保育の特徴でした。
箕面自然幼稚園は、昭和9年(1934年)に橋詰が死去した後は、箕面学園校長小谷新太郎が引き継ぎ、終戦直前まで続けられたようです。
橋詰良一は、自身の黒目がちな目と話し出すと止まらないところがせみに似ていると、“せみ郎”と自称するなど、遊び心のある人だったようです。
橋詰が家なき幼稚園を設立したのは、自身の病気で3か月ほど家で療養している時に、こどもと大人が家でずっと一緒にいることは決していいことではないと感じたことがきっかけでした。そして、「こども同士の世界をつくるのに最もよい所は、大自然の世界」と考えました。そのため、自然が家であるとして、園舎のない“家なき幼稚園”としました。ところが、その後、幼稚園としての認可を受ける必要が生じ、園舎を建てることとなったため、“自然幼稚園”と改称しました。
大阪毎日新聞社記者だった橋詰は、明治44年(1911年)に箕面で開催された山林こども博覧会にかかわっていました。このときに橋詰は、沿線の大自然に強い憧憬をもちはじめたことを後に述懐しており、その思いが家なき幼稚園の設立につながっていったのではないかと言われています。
なお、大阪家なき幼稚園の歌を、大阪毎日新聞社主の本山彦一が作詞しています。本山は社会事業に理解が深く、橋詰が家なき幼稚園をはじめる時にも援助をしています。