箕面市 > 市政 > 市の計画・施策 > 施策・計画・プラン > 第五次箕面市総合計画 > 第四次箕面市総合計画 -みのおプラン2010- > 基本構想第2章 総合計画策定の背景
更新日:2018年10月25日
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本市は1956年(昭和31年)12月、大阪府内24番目の市として市制を施行し、大都市近郊の豊かな自然に恵まれた人口3万1千人の田園型住宅都市としてあゆみを始めました。
市制施行前後の本市の主な動きと、その発展過程を「総合計画」の期間ごとに以下に集約します。
町制施行 |
1948年(昭和23年)1月1日 |
箕面村が箕面町になる |
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1948年(昭和23年)8月1日 |
萱野村、止々呂美村と合併 |
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市制施行 |
1956年(昭和31年)12月1日 |
三島郡豊川村と合併、箕面市となる |
1956年(昭和31年)12月25日 |
旧豊川村東部(川合、岩坂、宿久庄道祖本、清水地区)が茨木市に編入 |
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1957年(昭和32年)4月1日 |
川合地区を編入 |
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1999年(平成11年)2月1日 |
茨木市大字粟生岩阪、大字宿久庄の一部を編入 大字粟生間谷、粟生間谷東三丁目の一部が茨木市に編入 |
1968年度(昭和43年度)~1975年度(昭和50年度)
三大都市圏を中心とした急激な都市化の進行による無秩序な市街地開発が問題視されるなか、長期的な見通しのもとで調和のとれたまちづくりを進めるため、市街地のスプロール化の防止や、道路、公園、上下水道、学校等の都市基盤の整備に努めるとともに、大阪船場繊維卸商団地(愛称:コムアートヒル)の開発を進めるなど、都市としての骨格を形成してきました。
1976年度(昭和51年度)~1985年度(昭和60年度)
1970年代前半のオイルショックを契機とした経済変動、福祉観の変化、大気汚染や騒音等の公害問題、急激な市街化による人口の過密化など新たな都市問題が起こるなかで、市民にとって安全かつより豊かで健康的な生活環境を整えるため、箕面市環境保全条例の制定、市立病院の開設、各種保健福祉施策の充実に努めてきました。また、本市の歴史的文化の継承と新たな箕面文化創造への取り組みを進めるとともに、上下水道、道路、公園・緑地など都市基盤の整備を引き続き進めてきました。
1986年度(昭和61年度)~2000年度(平成12年度)
将来都市像を実現するための施策や手段を可能な限り基本計画の中に示し、時代状況や財政状況をふまえながら施策を選択する「メニュー方式」により、行政の文化化をキーワードとして文化施策の推進、新しい分野としての国際化への取り組み、環境保全への取り組みの強化、市民のニーズに応じた保健福祉施策等を展開してきました。
また、都市基盤の整備とともに、公共サービスや市民の活動拠点となる施設の整備を重点的な施策とし、コミュニティセンター、図書館、メイプルホール(文化ホール)、生涯学習センター、人権文化センター、環境クリーンセンター、教育センター、総合保健福祉センター、スカイアリーナ(体育館)を順次整備してきました。そして火葬場・斎場の整備により、本市の基礎的な都市施設の整備はおおむね完了することとなります。今後は、新市街地の計画的な整備と既成市街地の再整備をバランス良く行うとともに、市民・事業者・行政が役割分担しながら効果的な公共サービスの提供体制を整えていくなど、ハード施策からソフト施策への転換期を迎えています。
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