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更新日:2019年10月1日

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箕面公園(箕面山)その1-公園・名勝などの指定や明治以前のできごと

参考資料 <府営箕面公園となる経緯に関すること>
  • 丸山宏著『近代日本公園史の研究』思文閣出版、1994年☆
  • 箕面市史改訂版編さん委員会『改訂箕面市史部落史』本文編、箕面市、1999年☆

<名勝指定の経緯に関すること>

  • 大阪府教育委員会編・発行『名勝箕面山保存管理計画』1989年☆

<明治の森箕面国定公園指定の経緯に関すること>

  • 個人所蔵資料の新聞切り抜き帳
  • 内閣総理大臣官房編・発行『明治百年記念行事等記録』1969年
  • 箕面市史編集委員会『箕面市史』第3巻(本編)、箕面市、1977年☆

<明治以前や山内寺院に関すること>

  • 井上正雄著・発行『大阪府全志』巻之三、1922年☆
  • 大阪府学務部編・発行『大阪府史蹟名勝天然記念物第二冊三島郡・豊能郡』1928年
  • 箕面市史編集委員会編『箕面市史』第1巻(本編)、箕面市、1964年(瀧安寺や勝尾寺の縁起が掲載されています。)☆
  • 箕面市史編集委員会編『箕面市史』第2巻(本編)、箕面市、1966年☆
  • 箕面市史編集委員会編『箕面市史』史料編3、箕面市、1969年(瀧安寺の縁起を活字化したものが掲載されています。)☆
  • 勝尾寺発行「勝尾寺」発行年不明☆
  • 芦原池史編集委員会編『芦原池と地区の歴史』箕面市大字平尾・大字西小路・大字牧落・大字桜財産区、1988年☆
  • 浅野清編『西国三十三所霊場寺院の総合的研究』中央公論美術出版社、1990年☆
  • 丸山宏著『近代日本公園史の研究』思文閣出版、1994年☆
  • 吹田市立博物館編・発行『平成11年度特別展北摂古寺巡礼-信仰の語り部たちとの出会い-』1999年☆
  • 大阪市立美術館編『役行者と修験道の世界-山岳信仰の秘宝-』毎日出版社、1999年☆
  • 島田竜雄・三上萬作子編「箕面山瀧安寺(開山役行者千三百年忌)」瀧安寺、2000年☆
  • 奈良国立博物館・NHKプラネット近畿編『特別展西国三十三所観音霊場の祈りと美』奈良国立博物館・名古屋市博物館・NHKプラネット近畿・NHKサービスセンター、2008年☆

箕面公園になった経緯

大阪府営箕面公園は、明治31年(1898年)5月20日に誕生しました。公園地となるまでには、多くの人びとのはたらきかけがありました。

  • <資料の紹介>
    電車が開通する前と直後の箕面公園の案内図があります。箕面公園景観や橋・茶店・休憩所などの施設の写真絵はがきが多数あります。滝や箕面川絵はがきも多数あります。

最初のとりくみ

明治6年(1873年)1月15日、太政官布告第16号により公園の設置が法制化されます。この布告にもとづき、各府県は、公園候補地を選びました。大阪府は、住吉、箕面山、天王寺を上申し、実測図の提出を指令されます(堺県も浜寺を上申し、許可されています。)。明治7年(1874年)8月に箕面山と住吉が公園地予定範囲の実測図を提出しますが、翌月9月28日に箕面山だけが不許可となります。そこには、箕面山を「勝区」と心得るが、公的に必要な場合は木々の伐採もあり得るとありました。これを受けて、明治8年(1875年)2月4日、大阪府は告示第38号により箕面山を「勝区」と位置づけました。大阪府の要求は、瀧安寺境内を除く箕面山298町歩余り(約298ヘクタール)というあまりに広大な土地だったため、官林として存続させるほうがよいと判断したのではないかと、『近代日本公園史の研究』(思文閣出版、1994年)の中で著者丸山宏は指摘しています。
大阪府告示第38号には、これまで公園地に定めおいていたが、内務省達により公園地の称を廃するということも記されています。このため、明治6年(1873年)に一度公園地になっていたと解釈する場合があります。ただし、公園地範囲の設定前であることを考えると、設置されたとするのは無理があります。当時の手続き状況を考えると、候補地として受理はされたが、設置までの手続きの途中で不許可になったと考えたほうがよいようです。大阪府では、候補地と認められた段階で先行して公園地としていたのかもしれません。

大阪府会議員金丸鉄(かなまる・まがね)のとりくみ

最初に箕面山の公園地化をとりあげたのは、大阪府会議員金丸鉄(嘉永5年-明治43年<1852年-1910年>)です。明治23年(1890年)11月15日の通常府会で、金丸は箕面山を公園地とする建議(約66町7反<約66.7ヘクタール>)を提案し、可決されます。金丸はこの提案の際に、公園地とすることで使用権が大阪府に移り、その土地を貸すこともできるとしています。大阪府にとっては、公園地にすることで収入源になるという利点がありました。しかし、この時は、箕面山を管轄していた大阪大林区署が認めませんでした。

公園設立

明治28年(1895年)に、大阪府会議員森秀次(安政2年-大正15年<1855年-1926年>)が提案した箕面公園設立の建議が、可決されます。この建議を受け、大阪府が大阪大林区署に照会した書類の付図には、公園予定地はおよそ130町歩(約130ヘクタール)となっています。すぐには回答が得られませんでしたが、明治30年(1897年)12月には大体の合意が得られ、区域を定める手続きに入りました。明治26年(1893年)12月に、尼崎-池田間に摂津鉄道が開通したことにより、行楽客が増えたことも背景にあったようです。
こうして、公園地区域約85ヘクタールをひきつぎ、明治31年(1898年)5月20日、大阪府告示第91号により、念願の箕面公園が設置されました。その後、明治32年(1899年)の国有土地森林原野下戻法により、公園地は一時旧所有者の瀧安寺に戻りますが、明治40年(1907年)大阪府は公園地を買収し(85町3反8畝13歩<約85.4ヘクタール>)、名実ともに大阪府の公園地となりました。

森秀次(安政2年-大正15年<1855年-1926年>)

滝に向かう道沿い、夫婦橋(めおとばし)のふたつめの橋を渡った正面に、森秀次の銅像が建っています。この像は、もともと大阪府自治行政講究会豊能郡支部により建てられたものです。森は、地価修正運動(地価引き下げの運動)や水害復旧など当時の豊島郡(てしまぐん)・能勢郡(のせぐん)の課題につぎつぎと取り組み、明治37年(1904年)には衆議院議員にもなっています。こうした功績により、昭和5年(1930年)1月12日、銅像が建てられました。その後、昭和18年(1943年)に銅像は金属供出され、翌年細河聯合町内会により石像が再建され、昭和44年(1969年)、現在の銅像が建立されます。このときに、「箕面公園創始者」と土台に刻まれました。昭和5年(1930年)当初の建立の目的は、豊能郡出身政治家としてのさまざまな功績をたたえることにあったことが、もともとの碑文から読み取れます。

名勝指定

箕面山の名勝指定の動きは、昭和3年(1928年)ごろからあったようです。大阪府史蹟名勝天然記念物調査会常任委員だった大屋霊城(おおや・れいじょう。明治24年-昭和9年<1891年-1934年>)は、大正6年(1917年)から独自の調査をしており、昭和3年(1928年)ごろに報告書を提出しています。大阪府は、それをもとに、知事から文部大臣に仮指定の協議をしました。このとき、大阪営林局は、国有林区域が指定されると必要な施設整備ができなくなるという理由で同意しませんでした。昭和5年(1930年)9月30日、府営公園地、瀧安寺境内、公園周辺の民有地が大阪府により仮指定されました。
その後、仮指定のままだとその指定も危うくなるとして、昭和29年(1954年)10月21日付けで、箕面町長と箕面町教育委員会の連署により、文化財保護委員会委員長宛てに、文化財保護法による名勝指定の申請を提出しました。申請は認められ、府営公園とほぼ同一区域が「名勝箕面山」として指定を受け、大阪府が管理することとなりました。この名勝指定と同時に、「天然記念物箕面山サル生息地」の指定も受けています。

明治の森箕面国定公園指定

昭和42年(1967年)の国定公園指定は、明治百年記念準備会議において「郊外に明治の森(自然公園)の建設整備を促進する」ことが決定されたのを受け、大阪府と東京都がそれぞれ指定申請しました。明治の森箕面国定公園は963ヘクタール、明治の森高尾国定公園は770ヘクタールの区域が指定されました。
この指定により、箕面国定公園では、大阪府により、自然研究路やビジターセンター、ピクニック園地、展望広場などが整備されました。箕面山と高尾山は東海自然歩道でつながっています(昭和49年<1974年>完成)。
国定公園の発足日は、明治百年記念日の昭和43年(1968年)10月23日でした。しかし、前年の大水害の発生や、大阪万国博覧会の影響で労働者が集まらないなど、施設整備が進みませんでした。発足直前の10月2日には、大規模ながけ崩れが発生し、ドライブウェーが埋まり、滝つぼ前の無料休憩所も押しつぶされました。施設が完成したのは翌月となり、落成式は、同年11月23日に開催されました。

箕面山と信仰(瀧安寺、勝尾寺、聖天宮西江寺)、行楽

箕面山は、滝に竜(水神)が住むという言い伝えがあり、古くから信仰の対象でした。この言い伝えは、瀧安寺の開基を伝える「箕面寺秘密縁起」の中に記されています。箕面川の下流で稲作を営むひとびとにとって、水は欠かせないものでした。生活に欠かせない水と山への信仰が竜神信仰になったのでしょう。
奈良時代に入ると、箕面山は山林修行者(修験者)の霊地となり、瀧安寺や勝尾寺が開かれました。
平安時代(12世紀末)末ごろから、滝と渓谷の絶景が知られるようになり、歌に詠まれるようになります。江戸時代(17世紀-19世紀)には紅葉も有名になり、参詣と行楽が同時にできる名所として、一般の人びとも多く訪れました。
明治4年(1871年)、太政官布告第4号の社寺領上知令により、社寺がもつ土地は境内をのぞき国のものとなりました。実際には境内内外の区別が難しく、多くの社寺ではすぐに実施はできなかったようですが、この法律にもとづき、箕面山も瀧安寺や勝尾寺の土地が官林になりました。
明治になると、ふもとの住民や箕面村が行楽客のために、道路を整備しています。

瀧安寺、勝尾寺、聖天宮西江寺

瀧安寺と勝尾寺は、奈良時代、山林修行者(修験者)により開かれました。瀧安寺は役行者(えんのぎょうじゃ)、勝尾寺は勝尾山で修行をしていた善仲(ぜんちゅう)と善算(ぜんさん)を師とする開成皇子(かいじょうおうじ)による開基と、それぞれの縁起に記されています。
その後、瀧安寺は修験道の根本道場として、千手観音をまつる勝尾寺は西国三十三所観音霊場として発展してきました。
聖天宮西江寺は、聖天宮として、歓喜天をまつってきました。歓喜天は仏教の守護神で、仏教世界を外の世界から守る神です。聖天宮西江寺は、まさに、瀧安寺を核とする宗教世界の入口に位置し、聖地と俗地を分かつ役割を担ってきたといえます。西江寺は、大阪市内にあった寺が、明治期に移ってきた寺です。
なお、瀧安寺は、もともと箕面大滝の滝つぼあたりにありました。山地にあった瀧安寺の伽藍(がらん)は、谷川に束柱(つかばしら)が長く伸びていました。これは、懸造(かけづくり)と呼ばれる手法で、清水寺もこの手法で建てられています。文禄5年(1596年)に近畿地方を襲った伏見大地震(慶長の大地震)で伽藍の多くが壊れたため、その後現在地に移転しました。

  • <資料の紹介>
    瀧安寺と勝尾寺の境内などの写真絵はがきが多数あります。

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