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更新日:2011年2月14日
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明治43年(1910年)3月10日、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が開業しました。最初の路線となったのが宝塚線と箕面支線です。
当時、すでに大阪府営箕面公園となっていた箕面山の玄関口に、箕面駅が開設されました。箕面駅の構造はとてもユニークなものでした。線路はテニスのラケットのような形で、公園に向かう滝道の前をぐるりと周遊するようになっており、降車場と乗車場が別々につくられました。
線路の内側(駅構内)は運動場になっていました。駅ができた当初は線路とホームがあるだけの殺風景な風景だったようですが、徐々に運動場内や駅の周辺にさまざまな施設がつくられていきます。山中には箕面有馬電気軌道が経営する動物園もつくられました。
| 参考 資料 |
<駅の設置やラケット形線路、その周辺の建築物などに関すること>
<カフェーパウリスタ箕面喫店に関すること>
<箕面動物園に関すること>
<大阪お伽倶楽部に関すること>
以上の堀田穣氏論考は、すべて、堀田穣研究室ホームページ内の「お伽船研究室」(http://www.geocities.jp/otogi1907/index.ht-ml)より確認した。
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箕面公園に向かう滝道の入口に、2本の塔がありました。塔には、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の「M」と「A」を組み合わせた社章が付いていました。
当初は電飾が付けられており、明治43年(1910年)7月1日に点灯開始しました。
時期は不明ですが、その後電飾ははずされます。写真絵はがきでは、観覧車と金星塔が同時に写っているものには金星塔に電飾がついていません。観覧車によく似た電飾が付けられていることから、金星塔から観覧車に電飾を付け替えた可能性もあります。観覧車は明治44年(1911年)7月15日に営業を開始しています。
大正のはじめごろ金星塔は、ライオン像を戴き、「箕面動物園」と刻まれたコンクリートの塔に建て替えられました。この建て替えの時期も不明ですが、大正2年(1913年)8月に撮影した写真には金星塔が写っており、大正4年(1915年)10月に作成した図面にはライオン塔が描かれているため、その間に建て替えられたものと思われます。
ラケット形線路内の運動場南端に、明治44年(1911年)4月16日に開館しました。建物正面に、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の「M」と「A」を組み合わせた社章がついていました。建物は回廊様式で、建物の中央部分には屋根がありません。
この建物は、大正8年(1919年)に宝塚に移築され、歌劇場として活用されましたが、大正12年(1923年)に焼失しています。
明治44年(1911年)10月に開催された箕面山林こども博覧会の時に、ラケット形線路内運動場に設置された遊具です。この博覧会の時につくられた児童電車のレールの内側にありました。博覧会終了後、運動場内にレールとともに残されました。
箕面郵便局は、明治43年(1910年)8月21日に、金星塔の西側に建てられた洋館で開局しました。玄関が飛び出し、2階にはバルコニーもある六角形のユニークな形状の建物です。
金星塔の東側には屋根にもみじの形の装飾がついた洋館がありました。そこに、明治44年(1911年)6月25日にカフェーパウリスタ箕面喫店が開業しました。明治末ごろに箕面喫店が閉店した後は、大阪お伽倶楽部の事務所が入ったようです。建物自体は金星塔ができる前から、すでに建築が始まっています。
この建物は、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の所有だったため、その後、同社が開発した豊中住宅地(大正2年<1913年>開発)に移築され、倶楽部(くらぶ)として使われました。移築時期は不明ですが、大正6年(1917年)にはすでに移築されていたようです。現在も、豊中クラブ自治会館として使われています。
箕面動物園は、明治43年(1910年)11月1日に、箕面山の山中に開園しました。場所は、現在のみのおスパーガーデンのあたりになります。箕面有馬電気軌道が設置しましたが、その運営の多くに、箕面停留所前に事務所があった大阪お伽倶楽部(おおさかおとぎくらぶ)がかかわったようです。翠香殿(すいこうでん。余興場)でおとぎ芝居を催すなどしました。
箕面動物園は面積がおよそ3万坪(約10万平方メートル甲子園球場総面積の約2.5倍)もある国内最大規模の動物園と宣伝されました。山の地形を活かして動物を配置したほか、当時珍しかった噴水や観覧車、翠香殿などの施設があり、園内各所には季節の花木が植えられていました。眺望が良かったのも人気だったようです。
動物は海外から取り寄せるなどしたようです。大正2年(1913年)の香櫨園(こうろえん)遊園地(阪神電鉄経営)閉園の際にも、箕面に動物たちがたくさん移ってきました。
箕面動物園は、大正5年(1916年)3月31日に閉園します。その後しばらくは箕面駅前ラケット形線路内運動場に動物を移し、無料公開しました。ゾウやトラなど大型の動物は、前年に開園していた天王寺動物園にひきとられたようです。なお、閉園後の動物の引取先として宝塚動物園といわれることがありますが、宝塚に本格的な設備をともなう動物園ができるのは、大正13年(1924年)に開業した宝塚ルナパークの時であるため、時期のずれに疑問が残ります。
日本最初の動物園は、明治15年(1882年)3月20日に開館した上野博物館付属の動物園です(前身は、山下町博物館に明治7年(1874年)ごろつくられた動物飼育場。現在の東京都恩賜上野動物園)。箕面動物園ができる前には、明治17年(1884年)に設置された大阪府博物場付属動物檻(天王寺動物園の前身)、明治36年(1903年)4月1日に開園した京都市動物園などがあります。そのほかにも、国内には、明治期から個人や企業経営の動物園が何カ所かあったようです。まだまだ知られていない動物園は多くありそうで、正確に何番目ということはできません。
規模については、皇室直轄の非公開施設であった新宿動物園(明治28年<1895年>設置)は敷地が約11.2万平方メートルと、箕面動物園よりも広かったようです。ただし、池や芝生が大半を占め、動物は少なかったようです。なお、箕面動物園開園時の上野と京都の動物園は、それぞれ3.3万平方メートル程度だったようです。
動物園の入口にある不老門と発券所はともに、おとぎの世界にいざなうような異国情緒あふれる凝ったつくりの建物です。滝道から動物園に架かる橋には「蓬莱橋(ほうらいばし)」という名前が付けられていました。
発券所の屋根部分には、箕面有馬電気軌道の「M」と「A」を組み合せた社章がついていました。不老門や蓬莱橋が写っていても発券所が写っていない絵はがきがあるため、開園当初はなかったものと思われます。
観覧車は、明治44年(1911年)7月15日からの納涼台開きにあわせて、営業をはじめました。同年7月13日付け大阪朝日新聞広告では、「涼しい空をぐるぐる大廻転車」とあります。観覧車には座席がなく、立ち乗りでした。観覧車の外側には二重に電飾がついており、夜になると電気がともり、山腹に輝く観覧車が見えたと思われます。観覧車の電飾は、駅前の滝道入口にあった金星塔から付け替えられた可能性があります。
檜皮葺の舞楽堂。大きさは50坪(約165平方メートル)ほどで、入母屋造の千鳥屋根、柱や床には檜柾を用いていました。『最近之大阪市及其附近』(大久保透著、明治44年<1911年>9月25日発行)によると、「桃山時代の御殿風」と紹介されています。ここで舞踊や音楽を演奏し、土・日・祝日には一般観客が無料で観覧できました。
明治44年(1911年)3月に、ドイツからライオンのつがいが来ました。明治44年(1911年)11月には、ライオンの赤ちゃんが生まれています。『山容水態』(箕面有馬電気軌道、大正3年<1914年>9月)には、ライオンの子どもは発育良好という記事が見られますが、同じライオンかどうかはわかりません。
カフェーパウリスタ箕面喫店は、明治44年(1911年)6月25日に、箕面駅前金星塔の東側の洋館で開店しました。建物の東西の壁にはカフェーパウリスタのマークがついていました。カフェーパウリスタでは店のことを「喫店」と呼んでいます。
専門店としてコーヒーを提供する店としては、大阪で1、2を争うほど早い時期の開店です。
この店の出店には大阪製菓株式会社取締役の渡邊益夫が関わっており、同社のお菓子とコーヒーのセットが10銭で提供されていました。
営業期間は不明ですが、明治45年(1912年)1月26日付けの大阪朝日新聞に掲載された「カフェーパウリスタ道頓堀コーヒー店」の開業広告中に、「東京、大阪、箕面、宝塚」と記されており、この時にはまだ営業していたようです。
ブラジル語(ポルトガル語)で、「カフェー」は「コーヒー」、「パウリスタ」は「サンパウロっ子」という意味があります。その名のとおり、カフェーパウリスタは、ブラジル共和国サンパウロ州との関係をもとに設立された会社です。
カフェーパウリスタの設立者である水野龍は、初のブラジル移民団長です。水野は、ブラジルに初めて移民を送り出した笠戸丸が日本に戻ってくる時に、コーヒー豆を持ち帰ります。水野はコーヒー豆の販路を日本で拡大する契約をサンパウロ州と結び、コーヒー豆を無償貸与されたのでした。
箕面もブラジル移民の歴史と、コーヒーを通してつながっているのです。
大阪お伽倶楽部は、明治40年(1907年)1月11日に発足しました。箕面駅前に事務所があった正確な時期は不明ですが、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)開業当初は、郵便局西側の建物にあり、その後カフェーパウリスタ箕面喫店があった洋館に移ったようです。洋館からは夜になるとにぎやかな楽器の音が聞こえてきたそうです。
お伽倶楽部は、全国のさまざまな地域で設立され、地域独自の活動を展開しました。各地域の団体が連携して、瀬戸内海を周遊する「お伽船」を運航し、各地のこども同士が交流するとりくみもしています。
大阪お伽倶楽部は、ラケット形線路内にあった公会堂で「口演(こうえん)童話」(物語の語り聞かせ)や箕面動物園内の翠香殿(すいこうでん・翠香殿)でお伽芝居(おとぎしばい。物語の劇)を定期的にするなどしています。
大阪お伽倶楽部発足の中心者である高尾亮雄(明治12年<1879年>~昭和39年<1964年>)は、箕面駅近くに長く住み、箕面のもみじを愛し、雅号を「楓蔭(ふういん)」としました。高尾はこどもが遊び、活動する場づくりが夢でした。箕面駅ラケット形線路内運動場から動物園にいたる空間は、高尾自身の夢を実現させる舞台でもありました。高尾は、もともとはヒューマニズム色の濃い社会主義活動家でした。演劇活動の中でお伽芝居と出会い、そこから、こどもをめぐる文化や教育、社会、福祉の問題に生涯にわたり幅広くとりくみました。
明治44年(1911年)8月1日から20日まで、ラケット形線路内運動場や公会堂で開催されました。運動場では、8月4日から6日までの3日間、実際に模型飛行機を飛ばす競技会が開催されています。公会堂では、こどもの作品からおとなの作品までたくさんの模型飛行機が陳列されました。大会開催前にも、会場内で模型飛行機製作材料の販売がされたり、副賞品の寄贈があるなど、関心が集まりました。大会の成功を機に、大阪お伽倶楽部では模型飛行機倶楽部を創立しています。
箕面山林こども博覧会は、ラケット形線路内運動場を第一会場、箕面動物園を第二会場として、明治44年(1911年)10月10日から末日まで開催されました。こどもを対象にした博覧会としては、非常に早い時期のものです。
第一会場では、円形のレールの上を児童電車が走り、その内外に、「富士山すべり」(すべり台)や「ピラミッドに獅子」(トンネル)、ブランコなどの大型遊具がもうけられました。象の曲芸もありました。
第二会場には、園内のあちこちに幼稚園児や小学生の作品展示場があり、昆虫館も登場しています。ラクダやロバにこどもを乗せて会場内を周遊したり、こども向けの理髪室や写真室もありました。
こども向けの催しのほかに、回生病院小児科によるおむつの展示や、おとなを招待しての研究会も開催されました。
また、滝道から動物園に架かる蓬莱橋(ほうらいばし)を五条大橋に見立てて牛若丸と弁慶の人形を配置し、動物園の入口である不老門の上には熊を持ち上げている金太郎の人形、動物園内を流れる川には桃太郎の桃などを置き、お伽倶楽部らしい演出をしています。
箕面駅のラケット形線路内の運動場は、大正11年(1922年)に住宅地になります。当初住宅地になったのは運動場の北側で、南側は東部が大正14年(1925年)ごろ、西部が昭和8年(1933年)ごろに宅地化されています。
箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)は、大正8年(1919年)3月、ラケット形線路内の運動場を廃止し、跡地の宅地化について箕面村に協議を申し入れています。箕面村は運動場の活用を考えたいと嘆願しましたが、同社の方針は変わらなかったようです。その後、同年11月に公会堂跡地(公会堂は大正8年〈1919年〉に宝塚に移築)に神戸線用新型車両8両の車庫2棟が設置されました。大正9年(1920年)7月に神戸線が開通した後、ラケット形線路は廃止されたと考えられます。
昭和15年(1940年)ごろには貨物ホームがなくなり、運動場跡地北側の広場を除いて、もとラケット形線路があった内外は、すっかり住宅や商店になりました。
箕面駅は、昭和54年(1979年)に終了した市の駅前再開発事業とあわせ、昭和53年(1978年)6月末に駅舎改築とホームの拡幅が完成しました。
かつてのラケット形線路は、駅手前のゆるいカーブや東側住宅地での数メートルの段差に、その面影をとどめています。地図で見ると、住宅の並びから、ラケット形線路のなごりがよみとれます。 また、現在のロータリーの北側がラケット形線路の北端の形状に沿っていました。乗車ホームは、みのおサンプラザ2号館東端あたり、みのおサンプラザ1号館と向き合う位置にありました。
桜井駅は、明治43年(1910年)4月12日に開設されました。当時は、駅から牧落踏切までの線路は、旧西国街道の南端に沿って敷設されています。箕面電車は軌道条例による設立のため、路線のどこかで道路と線路を併用しなければなりませんでした。しかし、旧西国街道は道幅が狭く、線路を敷設する余裕がなかったため、南側に用地を確保して併走させたと思われます。
大正15年(1926年)ごろ、阪急電鉄(当時は、阪神急行電鉄)は、箕面支線を含め各地の併用区間を専用線に変更しました。桜井駅から牧落踏切までの広い道路(桜井一番通り)と歩道に、かつての面影を見ることができます。
牧落駅は、大正10年(1921年)12月30日に開設されました。牧落駅は、駅前の百楽荘を開発した関西土地株式会社をはじめ、箕面村の多くのひとびとの働きかけや寄付により誘致されてできた駅です。
牧落駅は箕面小学校のすぐ近くにあり、同小学校に通う児童の安全のため、昭和5年(1930年)1月に踏切を廃止して地下道としました。現在、箕面小学校南側の高架下の道路は大きく掘りこまれていますが、これはそのなごりです。
明治43年(1910年)3月10日の箕面有馬電気軌道(現在・阪急電鉄)の開業をきっかけに、箕面は空気・水・景観など自然に恵まれ、交通の便もよい土地柄として、支線沿いに多くの住宅地が開発されました。箕面が郊外住宅地として今も続くのは、めぐまれた環境という条件のほか、新住民によるコミュニティーなどのとりくみにより、そういう条件を維持しつつ、住みやすいまちづくりがおこなわれてきたことが大きな要因でしょう。
| 参考資料 |
<箕面の郊外住宅地に関すること>
<桜ヶ丘住宅改造博覧会に関すること>
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桜井住宅地は、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が開発し、明治44年(1911年)6月15日に分譲を開始しました。箕面における大規模開発の第一歩となった住宅地です。
桜井は、南と北に山が連なり景観がよい上に夏涼冬暖、水質もよく交通の便もよく、果樹園を開発したため、各家の庭園には数本の果樹があり、モモ、アンズ、ナシなどの花や実が居ながらに楽しめる、と宣伝されました。
桜井の住宅は、規模にかかわらず1,200円の均一価格で販売されました。保証金200円を払うと大阪市内の家賃と変わらない月12円で、土地・建具つきの家が買えると広告が出されています。当時の大阪市内の長屋家賃(現在の3DK規模)は月4円30銭だったため、大阪に勤める高額給与生活者が対象だったと考えられます。
桜井では、住民により「桜井会」という自治組織がつくられ、コミュニティ活動が活発に行われました。雑誌を発行したり、購買組合を結成(大正8年<1919年>)するなどしています。
桜井住民による桜井児童保護会は、大正12年(1923年)5月1日に桜井幼稚園を開設しました。当初は、児童遊園地を拠点とした園舎のない露天保育だったようです。桜井児童保護会は、大正10年(1921年)に設立された会で、住民のこどもたちが通う箕面小学校の質の向上を目的に結成されました。
桜井幼稚園は、昭和10年(1935年)に若葉婦人会が譲り受けると同時に、現在の名称になりました。
大阪みどりの100選に桜並木が選ばれた、市道才ヶ原線周辺の箕面4丁目・5丁目近辺は、大正9年(1920年)ごろから箕面土地株式会社が開発しました。
同会社の経営主である岸本兼太郎(きしもと・かねたろう)は、開発当初から地域にも貢献できる独自の教育機関の設置を考えており、大正13年(1924年)に箕面家なき幼稚園(箕面自然幼稚園)、大正15年(1926年)に箕面学園(現在の箕面自由学園)を誘致しました。箕面学園は現在の北小学校の地に、箕面家なき幼稚園はその西側にありました。箕面土地株式会社は、この住宅地を「自然の学校村」とし、こどもを主体にした理想の学校をもつ住宅地として宣伝しています。
箕面土地は生活環境も整備し、大正15年(1926年)に地下水利用による簡易水道をひき、その後需要の増加により、昭和6年(1931年)には農業かんがい用水の飲料用水への利用を願い出ています。この時、新たにつくられた貯水池(才ケ原水源地)は、昭和27年(1952年)に箕面市が買収しましたが、昭和56年(1981年)にその役目を終え、その敷地は昭和57年(1982年)6月、コミュニティセンター北小会館「北斗の家」となりました。
桜ヶ丘住宅改造博覧会は、大正11年(1922年)9月21日から11月26日にかけて、日本建築協会により開催されました。生活の洋式化を推進する生活改善のとりくみの集大成といえる博覧会です。この博覧会では、理想のまちと家のモデルを実際につくり、終了後に展示住宅を土地付きで販売するという画期的な試みがされました。日本建築協会は、博覧会開催前に住宅設計図案を募集し、入選作品住宅も実際に建築、販売されました。
会場は約1万5000坪(約5万平方メートル)あり、東側(5000坪。約16,500平方メートルには、住宅設計入選図案の実物住宅や建築会社等全14社からの出品による合計25戸の住宅が建ち並び、西側の陳列本館には150品目をこえる物品の展示がおこなわれました。西側の野外会場には噴水、音楽堂、活動写真館、飛行機遊具、休憩所など、憩い遊べる施設もありました。
最寄り駅の桜井駅も飾り付けられ、駅から会場までの道の両側には広告看板が立ち並んでいたようです。
半円形の街区に道路を放射線状に配した博覧会の地は、今も美しいまちなみを形成しています。また、当時の展示住宅も残っており、国の登録有形文化財に指定されている住宅もあります。
桜ヶ丘住宅地は、田村地所部の田村眞策と豊福兼助が開発に着手した土地です。大正8年(1919年)から開発がはじめられていましたが、資材調達や天候、資金などの問題により開発は遅れぎみでした。
桜ヶ丘住宅改造博覧会の誘致にあたり、田村眞策は道路と下水道の整備を提案しています。実践的な生活改善のモデルを提案したい日本建築協会と、経営を軌道にのせたい開発者の思惑が一致して実現したのが、桜ヶ丘住宅改造博覧会でした。
博覧会終了後、会場周辺は田村地所部や大同土地株式会社により開発されていきます。その後、時期は不明ですが、その開発地は、阪急電鉄の経営地となりました。
進駐軍 の日本駐留 のため、昭和21年(1946年)8月から9月にかけて、桜ヶ丘の住宅の多くが接収されました。接収指定されると、家具や調度品の持ち出しまで禁じられました。昭和27年(1952年)にサンフランシスコ講和条約が締結 され、進駐軍が撤収すると住宅接収は解除されました。しかし、元の住人をむかえられなかった家もありました。また、家には多くの改造がされており、とくに塗装された内装の色には大変な違和感をおぼえたということです。住むためには、あらためて塗装しなおすなどしなければなりませんでした。
百楽荘は、関西土地株式会社が開発し、大正13年(1924年)7月に分譲を開始しました。開発当初は「新桜井住宅地」と名付けられていましたが、大正13年(1924年)11月ごろから「百楽荘」と宣伝されています。住宅のほか、売店、派出所、ビリヤード場、遊園地、下水などが整備されていました。百楽荘の玄関に位置する牧落駅は、同社をはじめ箕面村内の多くのひとびとの働きかけや寄付により、大正10年(1921)年12月30日に開設されました。
百楽荘の土地は、もともと櫻井(さくらい)住宅土地株式会社(大正9年<1920年>3月設立)の所有地でしたが、大正9年(1920年)12月に関西土地株式会社(当時は帝国信託株式会社。大正12年<1923年>10月に改称)と合併しています。
百楽荘の開発は箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の指導を受けたようですが、生け垣や石畳を敷いた側溝があるまちなみは、関西土地株式会社が独自に設計したようです。百楽荘には、同社の社長竹原友三郎も住んでいた時期があり、同社が力を入れた経営地だったと言えるでしょう。
今も小学校につながる広い道路の両側に生け垣や石畳が続く美しい街並みが維持されています。
東箕面田園住宅地は、小谷工務店株式会社が開発し、昭和4年(1929年)に分譲を開始しました。 当時の萱野村今宮近辺にあり、今回紹介した中で、唯一箕面の路線から離れています。
桜井南天荘は、昭和9年(1934年)ごろ、清光社が開発、分譲しました。現在の桜井三丁目から豊中市宮山町にかけたあたりです。
| 参考資料 |
<箕面小学校に関すること>
<箕面学園(現在の箕面自由学園)に関すること>
<箕面家なき幼稚園(箕面自然幼稚園)に関すること>
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箕面小学校は、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が開業する前年までは、西小路に校舎がありました。明治42年(1909)3月に現在地に移転し、校舎も新築しました。重要な資金となったのが、箕面村内の6つの大字が管理していた報恩寺松尾山を箕面有馬電気軌道に売却したお金でした。同社がこの時に購入した土地は、のちに箕面動物園となりました。
電車開通と住宅開発により児童は増え続け、校舎はすぐに狭くなり、増築を繰り返しましたが、常に教室不足に悩まされ続けました。昭和2年(1927年)と昭和8年(1933年)に、木造校舎のうち2棟をコンクリート校舎に改築しています。それでも、昭和11年(1936年)には新しい学校の建設が必要となり、やがて二部授業せざるを得ないほど苦しい状況になりました。昭和19年(1944年)2月、箕面村は経営困難となっていた箕面学園(現在の箕面自由学園)の校舎、教材、備品のすべてを買い取り、昭和20年(1945年)4月に北小学校(当時は北国民学校)を開校しました。
箕面村は、大正12年(1923年)に立てた村治計画の中で、「教育をもって人心文化の中心とすること」という項目をあげ、「教育中心主義」をかかげました。学校の講堂での児童文庫の開催や、巡回文庫の設置、教育講演会の開催、学用品の統一などしています。地域でも、桜井住宅地の住民が大正10年(1921年)に児童保護会を設立するなど側面から学校を支援しました。こうした熱心なとりくみにより教育が向上し、箕面村に移り住むひとびとが増えました。また、村外から入学を希望する者が多くなり、断るのに苦労するほどだったようです。
箕面学園(現在の箕面自由学園)は、大正15年(1926年)4月に、現在の北小学校の地で開校しました。とんがり屋根の塔がついた洋風校舎の新しい感覚の学校でした。
初代校長小谷新太郎は、児童みずからが本物の自然や文化に親しむことで情操をゆたかにする独創的な教育を重視し、「教育は人格と人格の隔てない交渉」として教師に対しても全人格的な教育を求めました。
学園周辺の開発者であり学園校主である岸本兼太郎(きしもと・かねたろう) は、村行政や地域の運営にもさまざまな協力をしていました。しかし、戦争の影響で、本業の商船業の経営が困難となり、各種の事業から手を引かざるを得なくなりました。そのため、昭和19年(1944年)2月、新しい学校の設立を計画していた箕面村が校舎、土地、備品すべてを買取り、昭和20年(1945年)4月に北小学校(当時は北国民学校)を開校しました。
同学園は、昭和20年(1945年)4月から半年間は宣真高等女学校に、その後は中山寺に仮校舎を置き、教育活動を続けました。昭和22年(1947年)10月に現在地に再建しますが、その時には「箕面学園」の名称が別の学校法人により登録されていたため、「箕面自由学園」として再出発しました。
箕面家なき幼稚園は、大正13年(1924年)6月、大阪毎日新聞記者橋詰良一によって設立されました。場所は、現在の北小学校の西側です。昭和5年(1930年)12月1日に箕面自然幼稚園と改称しました。「家なき幼稚園」としたのは、建物の中ではなく自然のなかでの育ちを重視し、名付けたものです。自然を教室とするために、移動に便利なように板と脚 をくみあわせる机と布張りのたためるいすを使いました。草や花などの自然物で工作し、遊ぶことも重視していました。
この幼稚園は、はじめ池田の室町住宅地に大正11年(1922年)に設立された後、その独創的な実践が多くのひとびとの関心を呼び、宝塚、十三、雲雀ヶ丘、千里山、大阪に、次々と設立されました。箕面は4番目の開設だったようです。それぞれが地域状況に応じた独自な活動を実践し、池田は“お宮の幼稚園”、宝塚は“川の幼稚園”、箕面と千里山は“山の幼稚園などと呼ばれていました。
箕面では山登り、ハンモック、“スベリッコスケート”(山の斜面をすべりおりるものか?)をしたり、時には、園主でもある岸本兼太郎の別荘に遊びに行き綱引きをすることもあったようです。地域の家庭を訪れるというのは他の園でもあり、この幼稚園の保育の特徴でした。
箕面自然幼稚園は、昭和9年(1934年)に橋詰が死去した後は、箕面学園校長小谷新太郎が引き継ぎ、終戦直前まで続けられたようです。
橋詰良一は、自身の黒目がちな目と話し出すと止まらないところがせみに似ていると、“せみ郎”と自称するなど、遊び心のある人だったようです。
橋詰が家なき幼稚園を設立したのは、自身の病気で3か月ほど家で療養している時に、こどもと大人が家でずっと一緒にいることは決していいことではないと感じたことがきっかけでした。そして、「こども同士の世界をつくるのに最もよい所は、大自然の世界」と考えました。そのため、自然が家であるとして、園舎のない“家なき幼稚園”としました。ところが、その後、幼稚園としての認可を受ける必要が生じ、園舎を建てることとなったため、“自然幼稚園”と改称しました。
大阪毎日新聞社記者だった橋詰は、明治44年(1911年)に箕面で開催された山林こども博覧会にかかわっていました。このときに橋詰は、沿線の大自然に強い憧憬をもちはじめたことを後に述懐しており、その思いが家なき幼稚園の設立につながっていったのではないかと言われています。
なお、大阪家なき幼稚園の歌を、大阪毎日新聞社主の本山彦一が作詞しています。本山は社会事業に理解が深く、橋詰が家なき幼稚園をはじめる時にも援助をしています。
| 参考資料 |
<箕面村の産業の変化に関すること>
<昭和10年代の萱野村や常照寺隣保館に関すること>
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大正期(1912年-1926年)も末になると、箕面村の農家は全戸数のわずか三分の一になり、「農業の革命期」をむかえます。箕面村は水利や地質の関係上果樹栽培がさかんでしたが、花卉(かき)・植木や蔬菜(そさい)栽培などを主流とする近郊農業へと変わっていきます。とくに生け花用として都市の高い需要があった花卉 ・植木に力が入れられます。大正13年(1924年)4月の大阪朝日新聞には、「花作る村々」という連載が掲載され、箕面村と萱野村の花づくりを紹介し、箕面村では専業53戸、副業40戸以上、温室は42棟あるとしています。昭和7年(1932年)の事務報告書(現在の市勢年鑑のようなもの)には箕面村域の3割が園芸植物の栽培地、住宅地と田畑がそれぞれ3割5分と記されています。箕面村は一大園芸地域でした。しかし、戦火が激しくなるとともに、食糧増産に力が入れられるようになり、しだいに花卉栽培が制限されるようになりました。
豊能地域(おもに今の豊能町・能勢町・池田市・箕面市・豊中市にあたる地域)は、古くから園芸がさかんな地域でした。植木が中心でしたが、江戸時代のおわりごろから生け花用の花卉(かき)の需要が増えました。明治なかばからは、当時はめずらしかったヒヤシンスやチューリップなども栽培するようになります。
箕面有馬電気軌道が開通すると販路が拡大するとともに、郊外住宅地の田園趣味や都市化により需要が増え、切り花園芸にとりくむ農家が増えました。
大正3年(1914年)2月には、箕面村大字半町(はんじょ)に園友会という花卉栽培農家の組織ができました。その規模を拡大するかたちで、大正5年(1916年)4月に北摂切花園芸組合美風会が結成されます。この組合には、現在の箕面村域では箕面村、萱野村、豊川村が参加し、そのほかに池田町、秦野村、北豊島村、桜井谷村、豊中村、熊野田村、新田村が入っていました。昭和5年(1930年)6月に豊能美風園芸組合と改称しました。昭和6年(1931年)の調べでは、箕面村は温室の棟数と総面積が会員のなかで群をぬいています。
組合では、当初、“花電車”とよばれる箕面電車の早朝特発電車により共同出荷していました。生け花用から冠婚葬祭・宴会用までとりあつかう幅の広さと生産量の増加により、昭和2年(1927年)12月からは専用トラックで、大阪や神戸市の花市場に一括出荷するなどのとりくみを展開します。
切り花業の発展のために結成したこの組合は、栽培技術の共有・開発、出荷取扱所設置による品質の保持、販路の開拓につとめ、優良な品質が「美風会の荷」として評価され、最高の市価をたもちました。
箕面村の隣村である萱野村(かやのむら)も切り花の出荷取扱所がおかれ、村が蔬菜(そさい)栽培を奨励するなど近郊農業化の傾向がありました。しかし、米作(酒造米)を中心とした村のありかたにほとんど変わりはありませんでした。昭和に入り、都市文化の流入や経済の疲弊により農村自治が危機をむかえるなか、農村としての可能性を求め、誇りある村の姿をとりもどそうとするとりくみが展開します。そのひとつが常照寺隣保館(じょうしょうじりんぽかん)です。隣保館とは、現在でいうならば、総合型社会福祉事業(施設)のことです。地域に拠点をおき、その地域の社会的課題に総合的にとりくむ、社会事業の一手法です。
藤原淨信(ふじわら・じょうしん) (明治32年<1899年>-昭和24年<1949年>)は、福井県の出身で、大正15年(1926年)5月に常照寺の住職になりました。藤原は、大正期ごろからおもに都市で実践されていた社会事業を農村に応用した、豊能郡における先駆者です。
常照寺では、昭和4年(1929年)秋から農繁期に託児所をひらき、昭和6年(1931年)12月からは常設保育をはじめています。隣保館事業としては、保育事業のほか、農民講座や日曜学校などの教化事業、古靴下から絹糸を再製しメリヤス加工する授産事業(農閑期)にとりくみました。しかし、この授産事業については、仕事がこまかすぎて「関西人には不向きであった」としています。昭和9年(1934年)時には、木工や藁細工などにとりくんでいたようです。
隣保館のとりくみの中でも保育園事業がとくに生活と密着する事業という考え方は、社会事業家の中ではよく見られるものです。
| 参考資料 | <府営箕面公園となる経緯に関すること>
<名勝指定の経緯に関すること>
<明治の森箕面国定公園指定の経緯に関すること>
<明治以前や山内寺院に関すること>
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大阪府営箕面公園は、明治31年(1898年)5月20日に誕生しました。公園地となるまでには、多くの人びとのはたらきかけがありました。
明治6年(1873年)1月15日、太政官布告第16号により公園の設置が法制化されます。この布告にもとづき、各府県は、公園候補地を選びました。大阪府は、住吉、箕面山、天王寺を上申し、実測図の提出を指令されます(堺県も浜寺を上申し、許可されています。)。明治7年(1874年)8月に箕面山と住吉が公園地予定範囲の実測図を提出しますが、翌月9月28日に箕面山だけが不許可となります。そこには、箕面山を「勝区」と心得るが、公的に必要な場合は木々の伐採もあり得るとありました。これを受けて、明治8年(1875年)2月4日、大阪府は告示第38号により箕面山を「勝区」と位置づけました。大阪府の要求は、瀧安寺境内を除く箕面山298町歩余り(約298ヘクタール)というあまりに広大な土地だったため、官林として存続させるほうがよいと判断したのではないかと、『近代日本公園史の研究』(思文閣出版、1994年)の中で著者丸山宏は指摘しています。
大阪府告示第38号には、これまで公園地に定めおいていたが、内務省達により公園地の称を廃するということも記されています。このため、明治6年(1873年)に一度公園地になっていたと解釈する場合があります。ただし、公園地範囲の設定前であることを考えると、設置されたとするのは無理があります。当時の手続き状況を考えると、候補地として受理はされたが、設置までの手続きの途中で不許可になったと考えたほうがよいようです。大阪府では、候補地と認められた段階で先行して公園地としていたのかもしれません。
最初に箕面山の公園地化をとりあげたのは、大阪府会議員金丸鉄(嘉永5年-明治43年<1852年-1910年>)です。明治23年(1890年)11月15日の通常府会で、金丸は箕面山を公園地とする建議(約66町7反<約66.7ヘクタール>)を提案し、可決されます。金丸はこの提案の際に、公園地とすることで使用権が大阪府に移り、その土地を貸すこともできるとしています。大阪府にとっては、公園地にすることで収入源になるという利点がありました。しかし、この時は、箕面山を管轄していた大阪大林区署が認めませんでした。
明治28年(1895年)に、大阪府会議員森秀次(安政2年-大正15年<1855年-1926年>)が提案した箕面公園設立の建議が、可決されます。この建議を受け、大阪府が大阪大林区署に照会した書類の付図には、公園予定地はおよそ130町歩(約130ヘクタール)となっています。すぐには回答が得られませんでしたが、明治30年(1897年)12月には大体の合意が得られ、区域を定める手続きに入りました。明治26年(1893年)12月に、尼崎-池田間に摂津鉄道が開通したことにより、行楽客が増えたことも背景にあったようです。
こうして、公園地区域約85ヘクタールをひきつぎ、明治31年(1898年)5月20日、大阪府告示第91号により、念願の箕面公園が設置されました。その後、明治32年(1899年)の国有土地森林原野下戻法により、公園地は一時旧所有者の瀧安寺に戻りますが、明治40年(1907年)大阪府は公園地を買収し(85町3反8畝13歩<約85.4ヘクタール>)、名実ともに大阪府の公園地となりました。
滝に向かう道沿い、夫婦橋(めおとばし)のふたつめの橋を渡った正面に、森秀次の銅像が建っています。この像は、もともと大阪府自治行政講究会豊能郡支部により建てられたものです。森は、地価修正運動(地価引き下げの運動)や水害復旧など当時の豊島郡(てしまぐん)・能勢郡(のせぐん)の課題につぎつぎと取り組み、明治37年(1904年)には衆議院議員にもなっています。こうした功績により、昭和5年(1930年)1月12日、銅像が建てられました。その後、昭和18年(1943年)に銅像は金属供出され、翌年細河聯合町内会により石像が再建され、昭和44年(1969年)、現在の銅像が建立されます。このときに、「箕面公園創始者」と土台に刻まれました。昭和5年(1930年)当初の建立の目的は、豊能郡出身政治家としてのさまざまな功績をたたえることにあったことが、もともとの碑文から読み取れます。
箕面山の名勝指定の動きは、昭和3年(1928年)ごろからあったようです。大阪府史蹟名勝天然記念物調査会常任委員だった大屋霊城(おおや・れいじょう。明治24年-昭和9年<1891年-1934年>)は、大正6年(1917年)から独自の調査をしており、昭和3年(1928年)ごろに報告書を提出しています。大阪府は、それをもとに、知事から文部大臣に仮指定の協議をしました。このとき、大阪営林局は、国有林区域が指定されると必要な施設整備ができなくなるという理由で同意しませんでした。昭和5年(1930年)9月30日、府営公園地、瀧安寺境内、公園周辺の民有地が大阪府により仮指定されました。
その後、仮指定のままだとその指定も危うくなるとして、昭和29年(1954年)10月21日付けで、箕面町長と箕面町教育委員会の連署により、文化財保護委員会委員長あてに、文化財保護法による名勝指定の申請を提出しました。申請は認められ、府営公園とほぼ同一区域が「名勝箕面山」として指定を受け、大阪府が管理することとなりました。この名勝指定と同時に、「天然記念物箕面山サル生息地」の指定も受けています。
昭和42年(1967年)の国定公園指定は、明治百年記念準備会議において「郊外に明治の森(自然公園)の建設整備を促進する」ことが決定されたのを受け、大阪府と東京都がそれぞれ指定申請しました。明治の森箕面国定公園は963ヘクタール、明治の森高尾国定公園は770ヘクタールの区域が指定されました。
この指定により、箕面国定公園では、大阪府により、自然研究路やビジターセンター、ピクニック園地、展望広場などが整備されました。箕面山と高尾山は東海自然歩道でつながっています(昭和49年<1974年>完成)。
国定公園の発足日は、明治百年記念日の昭和43年(1968年)10月23日でした。しかし、前年の大水害の発生や、大阪万国博覧会の影響で労働者が集まらないなど、施設整備が進みませんでした。発足直前の10月2日には、大規模ながけ崩れが発生し、ドライブウェーが埋まり、滝つぼ前の無料休憩所も押しつぶされました。施設が完成したのは翌月となり、落成式は、同年11月23日に開催されました。
箕面山は、滝に竜(水神)が住むという言い伝えがあり、古くから信仰の対象でした。この言い伝えは、瀧安寺の開基を伝える「箕面寺秘密縁起 」の中に記されています。竜神信仰のもとになるのは、水をつかさどる神への信仰です。それが水源の山の神への信仰となり蛇への信仰、竜への信仰とつながっていきました。箕面川の下流で稲作を営むひとびとにとって、水は欠かせないものでした。生活に欠かせない水と山への信仰が竜神信仰になったのでしょう。
奈良時代に入ると、箕面山は山林修行者(修験者)の霊地となり、瀧安寺や勝尾寺が開かれました。山林修行において滝を霊場とし行場とする思想も、もともとは土地のひとびとの信仰に根ざすものだったと言えます。
平安時代(12世紀末)末ごろから、滝と渓谷の絶景が知られるようになり、歌に詠まれるようになります。江戸時代(17世紀-19世紀)には紅葉も有名になり、参詣 と行楽が同時にできる名所として、一般の人びとも多く訪れました。
明治4年(1871年)、太政官布告第4号の社寺領上知令により、社寺がもつ土地は境内をのぞき国のものとなりました。実際には境内内外の区別が難しく、多くの社寺ではすぐに実施はできなかったようですが、この法律にもとづき、箕面山も瀧安寺や勝尾寺の土地が官林になりました。
明治になると、ふもとの住民や箕面村が行楽客のために、道路を整備しています。
瀧安寺と勝尾寺は、奈良時代、山林修行者(修験者)により開かれました。瀧安寺は役行者(えんの ぎょうじゃ)、勝尾寺は勝尾山で修行をしていた善仲(ぜんちゅう)と善算(ぜんさん)を師とする開成皇子(かいじょうおうじ)による開基と、それぞれの縁起に記されています。
その後、瀧安寺は修験道の根本道場として、千手観音をまつる勝尾寺は西国三十三所観音霊場として発展してきました。
聖天宮西江寺は、聖天宮として、歓喜天をまつってきました。歓喜天は仏教の守護神で、仏教世界を外の世界から守る神です。聖天宮西江寺は、まさに、瀧安寺を核とする宗教世界の入口に位置し、聖地と俗地を分かつ役割を担ってきたといえます。西江寺は、大阪市内にあった寺が、明治期に移ってきた寺です。
なお、瀧安寺は、もともと箕面大滝の滝つぼあたりにありました。山地にあった瀧安寺の伽藍(がらん)は、谷川に束柱(つかばしら) が長く伸びていました。これは、懸造(かけづくり)と呼ばれる手法で、清水寺もこの手法で建てられています。文禄5年(1596年)に近畿地方を襲った伏見大地震(慶長の大地震)で伽藍の多くが壊れたため、その後現在地に移転しました。
大阪府は、明治6年(1873年)の公園地候補地上申の際に、瀧安寺境内を除く約298ヘクタールの指定を計画しました。その要求は受け入れられず、明治31年(1898年)に公園地となったのは、滝道沿いの約85.4ヘクタールでした。その後も、大阪府は、明治44年(1911年)に国有林の払い下げについて建議していますが、このときも了承が得られませんでした。この明治44年(1911年)には、道沿いに木柵の設置や道路の改築、楓、桜、椿の植樹がされました。
大阪府の公園整備への意欲はかなり強く、大正2年(1913年)には、本多静六(慶応2年-昭和27年<1866年-1952年>)に依頼し、府営公園の整備方針をたてました。この方針に沿って大正9年(1920年)には、滝前の広場を整理し、滝つぼを南に拡張し、その縁に岩を積み、水位を上げて、豪雨時の対策をしました。大正10年(1921年)には、現在の昆虫館のあたりを芝生の休憩所とし、箕面植物見本園を新設しています。
大正10年(1921年)になって、ようやく国有林の公園的な利用が認められ、大正12年(1923年)12月8日に無償借入の許可を得ました。大正期に入ると、産業改革により多くの人びとが都会に住んで、働くようになり、それらの人びとの健康やレクリエーション、電車の普及による行楽者の増加を受けて、長年の要望が実現したものです。
また、箕面山には桜の古木も多くあり、大阪府は桜の群落を増やし、紅葉に勝る桜の名所にすることに努めています。昭和4年(1929年)には山桜553本と吉野桜180本が植え付けられています。
大阪府営公園東西一帯の公園地への編入の交渉は、その後も機会あるごとに続けられたようです。実際に、国有林を含む箕面山一帯(963ヘクタール)が公園地となるのは、明治百年記念の森として国定公園の指定を受けた昭和42年(1967年)のことです。
大阪府は、大正13年(1924年)に箕面公園の大規模な整備を行いました。この時の整備には、回遊路の新設など、本多静六が立てた方針も生かされています。
箕面公園の整備において技術的な役割を果たしたのは、大屋霊城(おおや・れいじょう。明治24年-昭和9年<1891年-1934年>)です。大屋が記した、将来に向けての改良方針の中には、主要道路建設による大阪市との直結、ケーブルカー、ホテル、水浴場など、後に実現したものもあります。
<大正13年(1924年)に整備された施設一覧>
一の橋手前には古くから一の橋楼という茶店・土産物屋がありました。一の橋楼の向かいにある橋本楼(料亭旅館。現在の橋本亭)は、明治末の箕面有馬電気軌道開業後に建てられています。
一の橋を渡った箕面公園内にも、明治31年(1898年)に大阪府営公園となってから、多くの茶店、土産物屋、料亭ができています。『最近之大阪市及其附近』(大久保透著、明治44年<1911年>9月25日)では、「千秋館」、「對泉閣」、「琴の家」、「めん茂支店」、「丸屋」、「すすき旅館」、「菊水」、「紅葉樓」、「鳥菊支店」などの料亭や旅館を紹介しています。
大正末ごろと思われる箕面公園案内図には、一の橋から滝上あたりまで順に、次のような店が記されています。なお、旧名については、大屋霊城編『名勝箕面公園』(『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告第二輯名勝箕面山』別冊、1932年)の「箕面山内茶店変遷図」を参考にしました。
昭和10年(1935年)ごろに箕面電車が出したパンフレット「阪急沿線旅館・ホテル・料亭御案内」には、「一方亭」、「一の橋樓」、「橋本樓」、「豊田屋」、「枕流亭」、「加古川」、「吉田家」、「魚茂樓」、「丸屋」、「琴の家」、「山水樓」、「菊水」、「喜楽」、「錦遊亭」、「錦瀧庵」、「みの家・初音」、「紅葉樓」が紹介されています。
夫婦橋の手前には、大正期に大阪府の有料休憩所となった「梅屋敷」がありました。
滝道沿いを流れる箕面川の中には、川床(川中休憩/納涼台)が点在していました。行楽客がお弁当を食べたり、時には、碁や川柳の大会が開かれるところもありました。
『最近之大阪市及其附近』(大久保透著、明治44年<1911年>9月25日)によると、それらは箕面有馬電気軌道開業後、大阪時事新報社により無料休憩所としてつくったものとあります。大阪朝日新聞(明治43年<1910年>7月31日付け)には、大阪時事新報社が8月1日からの納涼台開きについて広告を掲載しており、この納涼台が川中休憩所と思われます。
それぞれに、現在の時雨のあたりから上流に向かって順に、「せせらぎ亭」、「しがらみ亭」、「酔石亭」、「箕水亭」、「沈鐘亭」というような名前が付けられていました。その後、大阪府が管理するようになった川中休憩所もあるようです。
ただし、箕面川は大雨による洪水も多く、流されることも多かったようです。
唐人戻り岩の写真絵はがきの中には、川中休憩所の屋根が連なっているようすが写っているものもあります。
平成22年(2010年)夏に、社会実験として川岸に床を設営するかたちで復活しました。
滝のイルミネーションは、箕面有馬電気軌道開業直後から演出されています。滝を五色に彩る「五彩の滝」の企画は、阪急電鉄が、昭和9年(1934年)に始めました。滝に、1キロワットのスポット4台に変色装置を加えて、演出しました。現在も、サマーフェスタ箕面公園(主催:箕面市観光協会)でのライトアップやキャンドル点灯が夏の夜を彩っています。
箕面には、箕面保勝会、個人による箕面観光協会、箕面観光倶楽部などの観光推進団体がありましたが、公設の機関はありませんでした。
昭和25年(1950年)10月13日の箕面町観光委員会において、大阪毎日新聞社主催による日本観光地百選に箕面滝が入選したのを機に、観光行政を活発化させることが議題になり、そのなかで観光協会の設置や、箕面八景の選定などが議論されています。
箕面町観光協会は、昭和26年(1951年)9月22日、創立総会を北小学校で開催しました。設立趣意書の計画案にある箕面聖天山(しょうてんやま) の開発は、昭和28年度(1953年度)に着手されています。
箕面八景選定は、昭和26年(1951年)、箕面新十勝として阪神毎朝新聞社の主催、箕面町観光委員会の後援により、選定されています(1位から順に、如意谷の如意輪観音、新稲の栄松寺(えいしょうじ)、止々呂美川(とどろみかわ)、桜の正丸稲荷(しょうまるいなり)、白島の爲那都比古神社(いなつひこじんじゃ)、芝の萱野三平旧邸、平尾の西江寺(さいこうじ)、平尾の法林寺(ほうりんじ)、白島の薬師堂、半町(はんじょ)の本陣)。
箕面市は、昭和31年(1956年)12月1日に市制を施行しました。当時の新市町村建設促進法では、町村合併後5年間に限り、新市町村区域の国有林野の自治体への売払いなどを定めていました。この法律にもとづき、箕面市は、当初、市域全体の箕面山の買受けを計画しました。その後、南側山麓の一部に限定して再申請し、昭和33年(1958年)6月30日付けで大阪営林局長から承諾を受けました。この時に買い受けた山は、こもれびの森(平成6年<1994年>4月開設)、入会地だった六箇山(ろっかやま)をあわせた教学の森として、現在も市民の憩や教育活動の場として活用されています。なお、エキスポ‘90みのお記念の森は、平成2年(1990年)開催の国際花と緑の博覧会を記念して、大阪府が整備した森林公園です。
昭和39年度(1964年度)に、箕面市は「箕面山観光開発事業計画(案)」を作成しています。如意谷にあった才ヶ原水源地付近から山頂に至り、さらに箕面山自然動物園までつなぐロープウェーの建設や、民間導入により山頂付近に遊園地をつくるなど大規模な計画でしたが、実現には至りませんでした。
みのお観光博覧会は、昭和28年(1953年)4月5日から6月5日にかけて、箕面公園を会場にして開催されました。主催は、大阪府教育委員会と大阪日日新聞社です。箕面町は協賛というかたちでかかわっています。
会場では、テレビ館、近代産業館などの近代科学製品の紹介から演芸会や物産展示販売、各種のコンクールなど、さまざまな催しが行われました。博覧会開催時に箕面公園昆虫館が開館しています。
箕面山には、古くから野生のニホンザルが住んでいました。昭和25年(1950年)から昭和27年(1952年)にかけて研究者による生態研究が行われ、都市近郊の貴重な生息地であることが指摘されました。
昭和29年(1954年)に研究者や有志による餌付が成功し、昭和30年(1955年)5月5日に箕面町が箕面山自然動物園を開園しました(昭和56年<1981年>3月31日条例廃止)。
しかし、人間との間にトラブルが増加したため、自然に返すことに方針を変更しました。昭和52年(1977年)10月1日、箕面市は、箕面山猿調査会(現箕面山ニホンザル保護管理委員会)を設置し、今もそのとりくみを続けています。
観光馬車は、昭和30年代初めごろから昭和58年(1983年)の秋まで営業していたようです。昭和38年(1963年)には、箕面観光馬車組合が結成されています。昭和40年代半ばからは、滝道が混雑する土日は、ドライブウェーで営業していました。
昭和43年(1968年)当時の運賃は、大人150円小人半額、昭和45年(1970年)当時では、大人200円小人100円でした。6台程度の馬車が営業していたようです。
阪急箕面駅前から箕面大滝までのアスファルトの坂道は、馬にとっても重労働でした。急な坂道では、御者も降りて肩で後押ししました。そのため、1日3往復が限度だったようです。
明治期から残る箕面村の公文書には、水害がしばしばおこり、そのたびに橋や道路を修繕した記録が多く残されています。災害は人々の生活や産業に大きな影響をおよぼします。市域では、昭和13年(1938年)、昭和26年(1951年)にそれぞれ1人、昭和42年(1967年)には4人の死者が出ました。
昭和10年代は、昭和9年(1934年)9月の室戸台風、昭和10年(1935年)6月、同年8月、昭和13年(1938年)7月と、復旧のいとまもないほど、続けて豪雨に見舞われています。とくに、昭和13年の水害では、豊能郡内で18人の命が失われるなど、大きな被害が発生しました。箕面村でも1人が亡くなっています。
昭和26年(1951年)7月11日の大雨では、箕面町警察署長だった合田百一が殉職しています。合田は、箕面公園内にあった会社寮から増水の連絡を受け、署員と一緒に、公園内の店や寮の被害状況を確認しながら、滝まで向かいました。滝近くの茶店内にいる人を救助しようとして、濁流にまきこまれたのです。当時、箕面の警察は自治体警察だったため、町葬が行われています(昭和26年<1951年>9月30日に自治体警察は廃止されました。)。大門橋から滝に向かう道の途中、大きく右に曲がるカーブ手前の左手、合田署長が濁流にのみこまれた地点に、有志による「合田百一氏殉職之碑」が建てられています。
昭和42年(1967年)は7月9日から数日続いて大雨が降り続き、大きな被害がもたらされました。この水害では、止々呂美消防団員2人と4歳の幼児1人を含む4人が亡くなっています。止々呂美消防団員は、家屋崩壊防止のための流木撤去作業中に流されました。4歳の幼児は、自宅裏山で造成中の宅地が崩れ、自宅に土砂が流入して亡くなっています。もうひとりは、歩行中に水路に転落し流され、亡くなりました。
以前から、箕面川にダムを要望する声はありましたが、昭和42年(1967年)の水害は人命をともなう大きなものだったため、ダム建設への動きを強める要因となりました。
箕面川治水ダムは昭和56年(1981年)に工事完了し、翌年の昭和57年(1982年)5月19日竣工式が行われました(昭和58年<1983年>6月試験湛水完了)。
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