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更新日:2016年1月22日

50年の教育実践

昭和31(1956)年~46(1971)年

当時の資料を見て、私が文章にまとめるよりも第四代校長松山三郎左衛門先生の三十周年誌の文章が、創設から10年間の本校を語る上で最もふさわしいとの判断で再掲させていただきます。

第二中学校が昭和31(1956)年4月開校され、初代校長として就任された竹森実蔵氏(昭和57年4月29日死去)が、昭和41(1966)年3月末をもって退職されましたが、その10年間にわたって本校の創設期のために心を砕かれたのです。30周年を迎えるにあたって、竹森先生の足跡をかえりみることになりましたが、その当時若年の一教員として先生の指導を受けながら、教育活動に携わっていた私が、校長という立場で誕生したばかりの学校を運営しておられたその深奥を知るよしもありませんが、指導を受けた一教員として回顧し、その当時の教育実践を振り返ってみたいと思います。

昭和31年、経済白書で「もはや戦後ではない」と公表され、家庭電化の時代がはじまろうとしていた時期です。教育界も教育委員の公選制から任命制となり、勤務評定闘争の嵐が吹きあれつつありました。箕面も町制から市制になるなど、多くの諸問題があった時期です。

こうした諸状況のなかで第二中学校が誕生し、当初箕面小学校の東館(現在の体育館のあるところ)を借用し、5月下旬になって現在のところに移ったものです。翌年6月、自衛隊の手によって運動場が整地されました。ところが、学校の敷地内には樹木が一本もないといってよいような状態であったのを竹森校長は「生徒たちに潤いのない学校では駄目だ、緑の学校にしよう」と提唱され、その提唱に賛同された校区の方々が、自分の家の樹木を大八車やリヤカーに積んでどんどん運びこんでくださったことをあざやかに思い出します。それらの樹木を整理し、植栽し、水やりをして下さる地元の方々と一緒に、麦わら帽をかぶって働いておられた竹森校長の温顔を思い浮かべます。

学校の増改築のため伐採したのも多くありますが、現在も運動場西側の桜の木々、校舎南側にある多くの樹木は、その当時の二中校区の方々が、二中をみんなの力で育てようという気持ちで学校によせられた木々であることを忘れてはならないと思うのです。昭和41年4月、大阪府緑化推進委員会から「緑の学校」として表彰をうけたものです。また、その当時、特殊教育とよばれていた現在の養護教育の推進充実にひとかたならぬ力を尽くされたものです。その時期養護教育は学習内容をゆっくり、ステップを踏んで学習するだけでは子どもたちが生活的に自立していくことは難しさがあるというので、職業訓練的な学習が行われていた時期です。学校の前に箕面市教職員組合の事務所(現在、豊能障害者労働センター)がありますが、これはその当時の印刷の作業をする場所でした。活字を拾い、名刺や挨拶用葉書などの実習を試みたものです。

卒業していく子どもの進路開拓として、親御さんとも一体となって力を尽くされ、現在の福祉法人「あかつき園」の前身とも言うべき組織をつくられたわけです。

そのほか、統計教育の研究校となったとき、“適性教育”という用語をもって、一人ひとりの個性にあった教育と首唱され、生活と学力を結ぶ評価に着目、評価のねらい、用具、方法、集計分析など結着するところのない評価の問題ではありましたが、一人ひとりの子どもをみつめる大切さは教えられるところが多かったと思います。

先生の在任中、教育活動のもろもろについて教えられましたが、いずれも、古くして新しい教育実践の課題であることを認識するものです。これらの課題をうけとめ、解決への努力を重ねることが後を継ぐものの仕事ではないかと思います。

昭和47(1972)年~63(1988)年  二中教育の幾十年

明治の森箕面国定公園を背景に、入学式の頃には校庭やグランドをとりまく桜が満開となり田植えがはじまる前には五月晴れのもと田んぼの苗が風に揺れ緑豊かに春を感じさせてくれたゆったりした景色がまだありました。

しかし、学校は川上龍雄校長先生(第3代)のもと現在の原型となる校舎建設がはじまり校庭の一部に建ったプレハブ校舎も使っての混然としたなかでの学校生活でした。解体予定の木造校舎で1年生の授業をしていたところ、生コンクリートが窓ガラスを割って教室内に流れ込み生徒も教職員も一瞬ぞっとしたことが今でも思い出されます。

また、教育内容の面では同和教育を柱とする人権教育の取組が全面的に見直される時期にあたり職員室では熱のこもった議論が繰り返されました。

その後の歩みは同和教育推進校として年ごとに学力保障体制づくりと同和教育をはじめ多様な人権課題の学習を進めるためのカリキュラムづくりに取り組みました。今の大阪府の財政状況からは想像もできないと思いますが、視聴覚教室、LL教室といった特別教室、社会科、技術家庭科、音楽科、美術科のための教科専用教室、シャワー付き更衣室をもつ体育館が整備されただけではなく、府単独の財政措置により教職員定数外に加配として教員が多く配置され、一クラスの定数も通常より引き下げられ35人学級編制となりました。

こうして学習環境が整う中で一生懸命取り組みましたが、教育という性格上、目に見えた形での成果はあげられませんでしたが、今で言うティームティーチングや個別の習熟度別指導など他校に先駆けて学力向上に向けたとりくみを先進的に展開しました。そういう意味では「二中やからできる」という外の声も誇りに受け止めていました。生徒の側では生徒会活動など生徒自らの力で学校生活を改善する自主活動の強化や人権問題(特に同和・民族・障害者問題)を生徒間でアピールしていくための人権サークルの取組にもエネルギーをさきました。

人権サークルを中心に顧問をはじめ学年のとりくみ等、教師側からの提示、投げかけもありましたがなかまの人権、社会にある人権問題を自分で議論し考え、気持ちを伝え合うというサークルや学級集団、各学年会長会の論議の作風がつくられていきました。

また、体育祭で学年を縦割りにして東西南北の4団を編成しとりくまれた応援合戦、学級ごとの応援旗や法被の作製、文化祭の舞台発表、卒業前の3年生お楽しみ会、人権サークルによる劇の上演や生徒会と共催しての全校集会開催等、二中生として「しなければならないことはする」、そして「したいこともできる」を二本柱に自主活動の活性化が一貫して図られていきました。その分、教職員の指導にかける時間も膨大となりエネルギーの持続にはなかなか大変なものがありました。

特に服装などの生活態度の改善を2年生に求めてバトンタッチをすべき後期生徒会役員選挙の場で3年生がボイコットにでたことがありました。生徒会組織を活用して学校生活全体の改善を目指そうとした3年生の流れに2年生を載せるのに双方の学年教職員団が大変苦労したことやその当時の前向きに取り組もうとする生徒達の熱気はいまでも思い出されます。

一方でPTA活動への教員の参加により家庭や地域との連携も深まり、学級懇談会等PTA活動のなかで人権問題がテーマとしてとりあげたり、定期的な参観日とは別に参観の機会を設け、子どもの様子を見たりと自主的に活動の活性化が図られました。

しかし年度によっては、それぞれ大きな課題を抱えた生徒もおり生徒指導上の問題も多々起こり、学校としてのイメージをよく見てもらえないはがゆさやいらだちをずっと抱えておりました。悔しい事ながら今もありうることです。

特に、阪急箕面線から西側全ての地域を校区とする本校は昭和55年度から59年度にかけては人口急増期とも重なり、生徒数が千名を越え教職員数も60名を越えるマンモス校となり前述のように学校行事、生徒指導等様々な面でやりがいや楽しみも多かったですが、反面困難でもあった時期でした。

平成元(1989)年~7(1995)年

1989年には、1年生では地域学習からつなげた萱野青少年会館のフィールドワークが始まった。館長や指導員から、会館設立の目的やその活用状況、活動内容を聞いた。生徒は会館が部落差別をはじめとするあらゆる差別をなくすための拠点であることなどを知った。これをスタートにして、2,3年生の人権学習がとりくまれていった。

1990年、箕面市同和教育総合実態調査(1988年実施)の結果が出された。学力と自尊感情、環境統制感などの自己概念の関係が明らかにされた。これを契機に、学校では新しい学力向上のとりくみを模索するようになった。

また、この頃より、従来の人権学習のテーマが、部落問題学習をはじめとする障害者問題、在日韓国・朝鮮人問題の3本であった頃から、より広がりを見せるようになった。1992年には1年生が、「アジアを知ろう」のとりくみを本格的に実施し、7つの国から留学生・外国人を招き、異文化に触れ、学んだことを文化祭で発表した。また、2年生は環境問題にとりくみ幅広い視点で人権学習が展開される基礎が築かれた。

しかし一方で、この年の9月29日、中校舎2階のドアに悪質な被差別部落に対する差別落書きが見つかった。あらゆる差別を許さない集団を再組織するため、教職員が自らの生き方や日常の教育実践を見直していく確認がなされた。

落書きに対して、1年生では「考える会」が生まれ、2年生、3年生でも学年集会がもたれるというように生徒の活動も活発化した。さらに、この差別事象は二中のこれまでの生徒の人権学習のあり方を問い直すこととなった。

1993年は教職員の意識が少しずつ変化してきた頃であった。学力保障では教員の個別対応からシステム化へ、人権学習では講義から行動へ、「ねばならない」から「やってみよう」へと、改革がなされるべきであるという考えが徐々に芽生えてきた。

1994年度はこれまでの二中教育が大きく改革されたエポックメーキング的な1年となった。まずめざす子ども像が「主体的に進路を選び、進路先で自分の位置を築くことのできる子」と変更された。個を育てることの大切さにウェイトを置き、そこを基点に集団を育てていく「個と集団」という考え方が、このめざす子ども像により教職員に共通理解された。そして、この実現のための新しいとりくみが、次々と生み出された。

この年、入学した1年生は「自己選択」・「自己決定」をとりくみ・行事の中に盛り込んでいった。選択制コース別校外学習、のちに「In the Future 46人への仕事インタビュー」などのとりくみが子どもの「世界」を広げ、自己実現に向かわせるために展開されることとなった。

3年生では生徒選択授業を初めて実施した。いかにして子どもを授業にひきつけるかという授業者の切実な課題意識のもとに、子どもの学習意欲を高め、授業を変えるという期待感を込め、箕面市内中学校の中で先行実施した。

さらに3年生の数学で分割授業を実施した。学習効果を高めるために、少人数授業を展開し、授業者はきめ細やかな指導方法を研究した。次年度には、英語・国語でも実施されることになった。

また、この年は人権学習でも新しいとりくみがはじまった。3年生は、生徒に自己の生き方を見つめさせるため、「様々な職業の聞きとり」を実施した。テレビ局アナウンサー、航空整備士、動物病院院長、客室乗務員など、さまざまな職種の人に学校へ来てもらい、仕事の様子を見学したり、話を聞いたりした。この後、二中では「進路・仕事」に焦点を当てた人権学習・総合学習のとりくみが展開されていくこととなった。

1995年には、1年生で人間関係づくりのスキル学習として、参加型学習を行った。1990年代にはいると、毎年入学してくる子どもたちの人間関係づくりの力に課題が見えていたが、この年の1年生はその傾向を強く表していた。この生徒の実態にあわせ、座学の人権学習から実際に体験し実感を深め、「しなやかな人権感覚」の育成を図る参加型体験学習が人権学習として導入され始めた。

またこの年は学校システムとしてとりくむ授業改革の先駆けとなった1年でもあった。大阪府教育委員会教育課程の研究指定(1995年度、1996年度の2年間)を受けて、授業改革を進め始めた頃であった。まだまだ、手探りの状態という混沌とした時期、「授業の何をどう変えるのか??」。教職員はその活路を求めていた。

平成8(1996)年~17(2005)年

体験学習が本格化

平成8(1996)年は、体験学習を中心とした人権学習が本格化した1年であった。2年生は教学の森で2泊3日のすべての行程がワークショップを組まれた宿泊学習を行った。プログラムにはすべて「Do(体験)→Look(ふりかえり)→Share(分かち合い)→Think(考える)→Grow(次のステップへ)」という体験学習の手法が盛り込まれていた。

実際活動を行ってみると、ワークショップの活動の中で子どもたちは、普段の学校生活とは違ったさまざまな一面を見せてくれた。

2年生はその後、11月に初めての職場体験(「1日ワーク体験」)を実施した。

当時、箕面市内はもちろんのこと、大阪府内でも職場体験を行っている学校はまだほとんどない中、先陣を切った取り組みであった。ワーク体験は仕事を体験することで、働くことの喜び・厳しさを知ると同時に、自分自身に対する自信を深めさせ、将来就きたい職業を展望し、自分の生き方を考えるという目的であった。子どもたちからは、働いた後の充実感あふれる感想が多数寄せられた。(この職場体験は平成7(1999)年から「3DAYS WORK」となる)

このように、二中の人権学習はこの頃から人と出会い、子ども自身の体験を通して、自らの生き方を展望するスタイルへと変わっていった。

ワークショップ(ラインナップ)

ワーク体験(箕面観光ホテル)

授業の改革にむけて

また平成8(1996)年は学校全体のシステムとしての授業改革が本格化した年でもあった。「子どもたちの学ぶ意欲を高めたい。何とかして授業を変えたい。」という教師の切なる思いから授業改革はスタートした。

「学習集団づくり」「表現力の育成」「授業と評価」の3つのテーマで教職員がグループに分かれ、各グループ年間6回の研究授業を行うとともに、各グループには、大学等の研究者が助言に入ってもらい、授業案づくりはグループとして行い、助言者にも関わってもらうとともに、研究授業を見学後、指導助言をもらい、次の研究授業を組み立てる。この一連の研究体制を5年間継続した。

平成9(1997)年1月29日に第1回研究発表会を実施し、研究成果を大阪府内の教育関係者に対して報告した。平成11(1999)年の研究発表会では助言者の佐藤学先生(東京大学)から、教職員の研究体制に惜しみない賛辞が送られた。

研究授業の風景  >  

開かれた学校づくりの始まり

大人と子どもの関係が希薄になる中で、従来、家庭・地域の生活の中で育まれてきた人間関係を築く力が弱まった子どもたちが入学してくるようになった。そこで、子どもと大人の関係を深め、子どもの生きる力を育むために、開かれた学校づくり・地域コミュニティづくりに取り組み始めた。PTA学級委員会による公開授業日の設定、公開授業・問題別懇談会など、PTAとの連携も強化して行った。

さらに「ふれ愛教育推進事業」(CCP)を活用し、地域に開かれた学校づくりを推進して行った。地域の人が参加できる二中体育大会(後に「地域の祭  二中体育祭」)を皮切りに、保護者・地域の人・教員で構成する実行委員会が推進する「学校と地域の二中文化祭」が始まった。

「地域の子は地域で育てよう」ということばをキャッチフレーズに、開会式では地域の太鼓、小学校PTAコーラスが舞台発表を行った。また喫茶コーナーが地域の人に開かれるようになり、地域の作品展示では243点の作品が集まった。

また小中間の段差解消をねらい、新入生体験入学会をはじめ、生徒会オリエンテーション、体験授業などを実施した。また出前授業(その後「イキイキスクール」に継承)も始めた。

平成12(2000)年より「学校教育自己診断」を行い、子どもと保護者の評価を教育活動の改善に反映させていくように取り組みはじめた。その後、アンケートに工夫を加え、毎年取り組んでいる。

地域作品展  >  

沖縄修学旅行

平成9(1997)年、10年間続いた長崎修学旅行に代わって、行き先を沖縄に変更した。当時、沖縄へ修学旅行を行っている中学校は、大阪府内ではまだ数えるほどしかなかったので、一から内容を創った修学旅行であった。子どもたちは沖縄の美しい自然、人情豊かな人々、豊かな文化に触れることができた。同時に、過去の沖縄戦のこと、そして現在も基地問題と隣合わせで沖縄の人々が生活していることを知り、平和を願う気持ちを高めた。

沖縄修学旅行  >  

福祉の学習が始まる

この年、福祉をテーマにした人権学習が1年生で始まった。事前学習の後、白島荘、あかつき園、あかつき特別養護老人ホーム、明光ワークス、障害者事業団、松寿荘などのコースに分かれて見学し、学年の報告会をもつという学習であった。

そして平成12(2000)年には1年生で本格的な福祉体験学習が始まった。授業研究体制と重ねて実施したもので、高齢者とのふれあいの中で、自分もまわりの社会に関わることができるということで、自分と社会のつながりを深めることができた生徒の例など、得られるものが大きかった。

あかつき特別養護老人ホーム  >  

二中校区おやじの会とサークル2nd~学校に行こう~

平成11(1999)年、2学期には「二中校区おやじの会」、つづいて平成13(2001)年には「サークル2nd~学校へ行こう~」が二中の活動を支援する地域のグループとして発足した。

おやじ、おふくろが文化祭、体育祭をはじめとする学校行事に参画し、子どもたちと交流する機会をさまざまな形で提供している。

おやじの会種目「誘惑に負けるな」>  

個に応じた学力の向上と自学自習力を育てる取り組み

平成13(2001)年は「個に応じた学力向上」をキーワードとした学力保障のとりくみが始まった。習熟度別選択授業(B選択)をはじめて3年生で開始した。平成14(2002)年より、観点別評価に基づく絶対評価を導入し、生徒の学習意欲の向上を図る授業改革に取り組んでいる。

また、子どもの家庭学習の状況を見すえ、自主学習力を育てるのとりくみが始まった。「家庭学習ノート」は学校の学習と家庭学習をつなげ、基礎基本の定着をはかるとりくみとして、全学年で展開されるようになった。

家庭学習ノートにメッセージ  >  

まちづくりに学ぶ人権学習

また、平成16(2004)年より、1年生では地域のNPO活動を見学・体験する地域学習が始まり、子どもが地域の人と出会い、つながり、地域内の人権の課題(部落問題、障害者問題、高齢者問題など)を学び、自ら主体的にまちづくりにかかわっていくことをねらった総合学習を行っている。

ゆめ工房ききとり  >