箕面 温故知新 閉じる
萱野三平旧邸(涓泉亭)と墓碑
★6 萱野三平旧邸(涓泉亭)と墓碑
西国街道沿いに三平が自害したと伝えられる長屋門と土塀の一部が、萱野家と地元の人々の努力により伝え残されています。昭和48年(1973)には大阪府の史跡指定を受けました。また、管理棟「涓泉亭」には、三平に関する資料が展示されています。旧邸内の北西隅には辞世の一句を刻んだ句碑もあります。
「晴れゆくや 日ごろ心の 花曇り」涓泉
また、萱野三平の墓碑は、萱野の田園風景を見下ろす南側の千里丘陵(南山北公園横)に建っています。


萱野三平
「〜赤穂浪士四十八番目の義士〜」

今でも映画やドラマで語り継がれている赤穂浪士の討ち入りの物語『忠臣蔵』。その中で刃傷事件を赤穂に伝える使者となり、「忠」と「孝」の狭間で苦しみ自害した人物が、現在の箕面市萱野で誕生した大阪府出身の唯一の赤穂浪士萱野三平です。

『俳人涓泉としての一面』
赤穂浪士萱野三平重實(かやのさんぺいしげざね)は萱野重利の三男として、延宝3年(1675)萱野郷(萱野村芝)で生まれました。三平の叔父、従兄弟、兄、義兄は俳人として活躍しており、幼い頃から俳諧に親しんでいました。そして後に涓泉(けんせん)と号し、江戸俳壇でも評価の高い俳人としても活躍しました。

『赤穂浪士三平と赤穂事件』
三平は12歳の時に、父の重利が代官を務めていた美濃の旗本、大嶋家の推挙により播州赤穂の浅野家に仕官しました。ところが元禄14年(1701)江戸城松之廊下で浅野内匠頭の刃傷事件があり、内匠頭は即日切腹、さらにはお家断絶、赤穂城明け渡しの厳しい幕府の処分を受けました。その時、築地鉄砲州の赤穂藩上屋敷にいた三平は、事件を赤穂に知らせるために早駕籠で早駆けしました。

『仇討ちと三平の忠孝両全の決意』
赤穂事件後、三平は大石内蔵助を中心とした仇討ちの同士に加わり、仇討ちの時を萱野の実家で待っていました。その時に同じ赤穂浪士であった大高源吾が訪ねてきて三平と共に勝尾寺や箕面大滝で時間を過ごした後、西吟や鬼貫などの俳人仲間のもとを訪れました。これは、仇討ちの急進派であった三平をなだめるためであったといわれています。

しかし、三平を推挙した大嶋氏へ迷惑がかかることを心配した父が仇討ちに反対し、三平は同士との板挟みに苦しみました。そして、討ち入り前の元禄15年(1702)1月14日同士の目的達成を念じつつ自宅長屋門の一室で自害し、27年の生涯を閉じました。

阪急バス「萱野三平前」から徒歩2分