更新日:2010年3月1日

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箕面の歴史

箕面(みのお)の歴史は縄文時代にさかのぼります。今から3000~6000年前の人々が生活や狩猟に使っていた土器と石器が、瀬川・新稲(にいな)・稲(いな)・白島の各地で見つかっています。

弥生時代になると箕面地区からは土器と稲の穂刈りに使った石包丁や住居跡が、白島では土器、如意谷からは銅鐸(どうたく)が見つかっています。これによって紀元前後から3世紀ごろの市域では米づくりが行われており、各地に人々が定住して「ムラ」もできていたことが知られます。

阪急箕面駅の南東にあたる池の内遺跡は4世紀末から7世紀のムラ跡で、数棟の住居跡と土器や石製の装身具など多彩な遺跡が見つかりました。なかには堺市で作られた4世紀末の土器もあることから、他地域と交流のあったことも分かります。また、桜ヶ丘と新稲の丘陵台地には6~7世紀の古墳数基と、延喜式内社の阿比太神社が鎮座しています。古墳は池の内遺跡を残した有力者たちの墳墓であり、神社は彼らの祖先を祀った「氏神」社でしょう。箕面市の東部にある為那都比古神社も古代の萱野地方の開拓を行った有力者の氏神社でありましょう。

奈良・平安時代になると市域の南部を古代官道の山陽道が通り、萱野地区内に「草野駅(かやののうまや)」、箕面地区に「豊島牧(てしままき)」が置かれるなど、市域の様相が大きく変わってきました。一方、奈良時代の前後に山中で開基された箕面寺(瀧安寺)と勝尾寺は、やがて「聖(ひじり)」の集う寺院として著名になりました。

鎌倉時代になると瀬川は山陽道筋の宿場になり、南北朝内乱時には戦場になりましたが、豊島牧は消滅しました。かわって歴史の表面に新しい村々が登場し、後背山地の林木が「市木・売木」され、あるいは製炭が盛行するなど、商品林業経済が発展しました。

江戸時代に入ると、豊臣秀吉の農村政策で誕生した21か村では酒造米の生産を中心にした農業が発達し、山間部と山麓の村々では果樹生産と製炭が盛況をみました。また、瀬川・半町は幕府の宿駅制で山崎通の駅所となり、本陣と旅宿も置かれました。

明治維新の地方制度で一時期兵庫県に属した市域は同4年11月大阪府の管下になりました。そして同22年4月1日からは町村制の施行で従来の村々が合併して止々呂美(とどろみ)・箕面・萱野・豊川村が誕生しました。次いで31年には箕面山が大阪府立箕面公園になり、同43年3月の阪急電車開通によって各地に住宅街ができ、人口も年を追って増加しました。

そのため箕面村は戦後の昭和23年1月1日町制を施行し箕面町となり、同年8月1日止々呂美・萱野村を合併しました。次いで、同31年12月1日、箕面町と豊川村が合併、府下24番目の箕面市が誕生しました。以後40年の間に人口は12万5000人に増加、市域に明治の森国定公園を有し、自然に恵まれた住宅都市として発展しています。

「箕面 (みのお)」の地名のいわれは?

「みのお」の地名の由来は定かではありませんが、一説には「箕面大滝」の「面」(表面の形)が穀物を入れてもみ殻や藁屑をふるい分ける農具の「箕」に似ていることから、「箕面」という表記になったと言われています。「みのお」という名前は古くから知られていて、平安時代の流行歌を集めた「梁塵秘抄」にも

聖(ひじり)の住所はどこどこぞ、
箕面(みのう)よ勝尾(かちう)よ、
播磨(はりま)なる書写(そさ)の山、……

と箕面寺(現・瀧安寺)や勝尾寺が詠じられています。

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